【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【天文18(1549)年】
月日  天皇 政体 事項
3月6日 第105代
後奈良天皇
征夷大将軍
足利義藤
管領
六角定頼
関東管領
上杉憲政

関白
二条晴良
松平広忠、死去
 
 三河国の松平広忠が死去する。
 広忠は竹千代(後の徳川家康)の父。

 この広忠の死を受けて、今川義元は、
 太原崇孚を派遣し岡崎城を接収する。
 ≫『松平広忠』
 ≫『今川義元』


3月 大内義隆、養女を毛利隆元と婚姻させる
 
 毛利隆元は、
 毛利元就の嫡男。
 ≫『大内義隆』
 ≫『毛利隆元』


7月9日 三好長慶、入京
 
 三好長慶が京に進出したため、
 足利義晴と義藤(義輝)は近江国へ逃亡する。
 ≫『足利義晴』


7月22日 フランシスコ・ザビエル、日本上陸
 
 ザビエルは、
 スペイン人。
 イエズス会の宣教師。
 薩摩国鹿児島に上陸する。
 9月には、島津貴久とも会見。


11月9日 安祥城合戦
 
 今川軍が、
 織田氏が占領していた
 三河国安祥城を攻略する。
 この合戦で織田信広が今川氏の捕虜となる。
 ≫『安祥城合戦』
 ≫『織田信広』


 

 《天文18(1549)年のポイント》

 この年、中国では、大内義隆が、
 養女を毛利元就の嫡男である隆元に嫁がせ、
 同盟と言うよりも一種の冊封体制を整えつつあった。

 東海でも、松平広忠が急死したことで、
 三河国が今川氏による傀儡政権としての松平氏の支配から、
 今川氏による直接統治に組み込まれることとなる。

 そして京都では、三好長慶が京を占拠し、
 将軍の足利義藤(のちの義輝)と、その父で前将軍である義晴が、
 近江国に逃亡する等、混乱が打ち続いていた。

 そのような状況下、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸する。

 ザビエルは天文16(1547)年に、
 マニラにおいて日本人の弥次郎を改宗させ、
 その弥次郎から日本の存在を知り布教のためにやって来日したのである。

 以後、ザビエルは、耶蘇教各派の尖兵として、
 精力的に日本各地を回り有力者と会見し、
 布教活動を行う。

 これに対して日本側では、
 南蛮人たちの先進文明の「技術」と、
 貿易から得られる「富」と言うふたつの実利を求めて、
 主に西国の戦国大名たちが接近する。


 

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