| 【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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| 【天文10(1541)年】 |
| 月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
| 正月13日 | 第105代 後奈良天皇 |
征夷大将軍 足利義晴 管領 細川晴元 関東管領 上杉憲政 関白 近衛稙家 |
毛利元就、尼子軍を駆逐する |
毛利元就は、 前年の天文9(1540)年から、 尼子晴久率いる30000の大軍によって、 本拠の吉田郡山城を完全に攻囲されるが、 大内義隆が派遣した陶晴賢の援軍を得て、 この日、城外へ打って出て、 大勝利を収める。 ≫『青山合戦』 ≫『大内義隆』 ≫『陶晴賢』 |
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| 5月13日 | 『小県郡攻略戦』 | ||
武田信虎は、 嫡子の晴信を率いて、 諏訪頼重・村上義清らと共に、 小県郡の海野氏・禰津氏らを攻略する。 ≫『武田信虎』 |
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| 6月14日 | 武田信虎、駿河国へ出発 | ||
武田信虎は、 駿河国の今川義元のもとへ 輿入れしていた娘と対面するために 駿河国に出発するが、嫡子の晴信が クーデターを起こし、そのまま 駿河国に追放されてしまう。 ≫『今川義元』 |
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| 6月28日 | 武田晴信、家督相続 | ||
武田晴信は、 父の信虎を追放し、 17日に躑躅ヶ崎武田館に入り、 28日になって相続披露を行う。 ここに武田晴信は甲斐国主となる。 |
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| 7月19日 | 北条氏綱、死去 | ||
父は北条早雲(伊勢新九郎)。 死期が近いことを悟った北条氏綱は、 5月に嫡子の氏康に「家訓」を遺した上で、 この月の4日に出家し、亡くなる。 (亡くなったのは、17日とする説もある) 家督は氏康が相続する。 ≫『北条氏綱』 |
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| 8月 | 木沢長政、細川晴元と対立 | ||
木沢長政は、 かつて河内国守護代として、 細川晴元と手を組み、三好元長を倒したが、 この月に摂津国国衆に対する扱いを巡り対立。 10月29日には、長政が兵を率いて、 京都に接近したために、将軍である足利義晴は、 近江国に逃亡する事態となる。 |
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| 10月 | 上杉朝定、河越城を攻撃 | ||
北条氏の家督が 相続されたばかりの隙を狙い、 上杉朝定が北条氏の河越城を攻撃する。 |
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| 11月13日 | 尼子経久、死去 | ||
父は尼子清定。 尼子経久は中国地方で 下剋上の魁として大いに活躍し、 実に11ヶ国を領有する戦国大名となる。 家督は孫の晴久が相続する。 ≫『尼子経久』 |
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《天文10(1541)年のポイント》 動乱に明け暮れた戦国時代に、 さらに新しく大きなうねりが誕生した年となった。 甲斐武田氏と後北条氏では、 武田晴信(後の信玄)が父の信虎を追放し、 そして北条氏康が父の氏綱の死を受けて、それぞれ家督を相続したことで、 関東地方の戦国時代は新しい局面を迎えることとなった。 また中国地方でも、毛利元就が尼子軍を破る中で、 中国の覇者である尼子経久が死去し、 新しい時代の到来を予感させている。 その一方で畿内では、 京都を中心に各地で争いが続いていたが、 幕府内での争いが従来の管領家同士の内紛から、 管領家とその家臣との争いへと 変貌しつつあった。 |
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