【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【大永6(1526)年】
月日  天皇 政体 事項
4月7日 第104代
後柏原天皇
征夷大将軍
足利義晴
管領
細川高国
政所執事
伊勢貞忠
関東管領
上杉憲広

関白
近衛稙家
4月29日に再任
後柏原天皇、崩御

 父は後土御門天皇。
 母は源朝子。


4月14日 「今川仮名目録」制定

 全三十三ヶ条。
 領国内における訴訟に対して、
 裁判基準が明確にされた。

 関東初の「分国法」である。

 天文22(1553)年には今川義元によって、
 「仮名目録追加」が制定される。
 ≫『今川氏』


4月29日 第105代
後奈良天皇
後奈良天皇、践祚

 父は後柏原天皇。
 母は豊楽門院(勧修寺藤子)。


6月13日 細川高国、香川元盛を殺害

 細川高国の家臣である細川尹賢が、
 香川元盛のことを高国に讒言したことが発端。
 この事件によって、元盛の兄である波多野稙通と、
 弟の柳本賢治が、高国に対して謀反を起こす。


6月23日 今川氏親、死去

 父は今川義忠。
 母は北条早雲(伊勢新九郎)の妹。


11月13日 細川高国、丹波国へ出陣

 細川高国は、
 謀反を起こした波多野稙通と柳本賢治を
 討伐するために、幕府軍1500の軍勢で、
 丹波国へ出陣。

 しかし丹波国守護代である内藤国貞を始め、
 丹波国衆らが波多野兄弟に味方し、
 裏切ったために惨敗を喫す。


12月13日 三好勝長・政長、堺に布陣

 丹波国の波多野兄弟の謀反に連携して、
 阿波国の三好勝長と政長が畿内に進出。
 堺に布陣し、細川高国に圧力を加える。


12月 「鎌倉合戦」

 安房国の
 里見実堯(義豊説あり)率いる里見軍が、
 江戸湾を渡って北条氏綱の領内の鎌倉を襲撃。
 この合戦で鶴岡八幡宮は焼失した。
 ≫『北条氏綱』


 

 《大永6(1526)年のポイント》

 京都では細川高国が、
 細川澄元との抗争を経て、
 ようやく政治の実権を掌握していた。

 しかし高国の家臣の細川尹賢が、
 同じく家臣である香川元盛を高国が重用することを妬み、
 これを讒言し、殺害に追い込んだことから事態は一変する。

 このことが元盛の兄弟による幕府への叛乱を招き、
 その叛乱がさらに次なる叛乱を招くこととなり、
 中央は一気に不安定な状態と化した。

 中央が混乱する中、地方では、今川氏親が、
 分国法の「今川仮名目録」を制定し領国の安定を図っている。
 これは当時としては画期的な分国法であり、
 甲斐武田氏等に影響を与えた。

 また九州の島津氏でも、
 本宗家の島津勝久が、伊作家の島津貴久を養子に迎えて、
 混乱していた領国内の安定的な統一を図っている。
 因みに貴久の子が、勇猛果敢なことで、
 名を馳せる義久・義弘らである。

 一方で、当時の朝廷の衰微は甚だしく、
 後奈良天皇の践祚と後柏原天皇の大葬の費用を幕府に請求するが、
 幕府からは践祚関連の費用を凍結される等、微々たる金額しか支給されず、
 再度の請求の末にようやく支給された。

 なおこの年には、各国の軍師が必携していた軍学書の中の、
 「兵法運気巻」が編纂されている。


 

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