【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【明応2(1493)年】
月日  天皇 政体 事項
2月15日 第103代
後土御門天皇
征夷大将軍
足利義材
政所執事
伊勢貞隆
関東管領
上杉顕定

関白
一条冬良
足利義材、河内国へ出陣

 足利幕府10代将軍足利義材(義稙)は、
 畠山政長からの援軍要請に応え、
 義材は幕府軍を自らが率いて、
 畠山基家の遠征に向かう)
  ≫『畠山政長』


3月20日 『明応の政変』勃発

 細川政元が清晃(足利政知の子)を、
 将軍として擁立することを図る。
 (4月22日説あり)
  ≫『細川政元』


3月28日 征夷大将軍
足利義材
政所執事
伊勢貞隆
関東管領
上杉顕定

関白
近衛尚通
近衛尚通、関白就任

 父は近衛政家。

4月23日 細川政元、足利義材の罷免を宣言

 細川軍により足利義材派は鎮圧される。

4月28日 清晃、還俗

 還俗し「足利義遐」と名乗る。
 同時に従五位下となる。


閏4月2日 足利義遐、各層から参賀を受ける

 幕府衆のみならず、
 公家集からもこぞって祝福を受ける。

 同時に細川政元は、ほぼ時を同じくして、
 足利義材の討伐のため幕府軍を、
 河内国へ派遣する。


閏4月25日 畠山政長、戦死

 足利義材にとって、
 自分を支える数少ない武将を喪い、
 大きな痛手となる。


5月2日 細川政元、義材を幽閉

 ここに細川政元の政変は成功を収める。

5月6日 細川政元、義材に鎧・兜を要求

 この時、細川政元が要求した鎧と兜は、
 足利将軍家伝来の鎧と兜であり、
 事実上の将軍位の要求であった。


5月15日 『将軍暗殺未遂事件』勃発

 足利義材に毒が盛られたものであるが、
 この事件の首謀者は日野富子であった
 と伝えられる。
  ≫『日野富子』


6月29日 政所執事
伊勢貞隆
関東管領
上杉顕定

関白
近衛尚通
細川政元、義材の配流を決定

 細川政元は、
 将軍である足利義材を廃し、
 小豆島へ流罪とすることを決める。
 しかし足利義材は夜陰に紛れ逃亡する。

 これにより足利義材の将軍在位は、
 この日までとなり、同時に将軍位は空白となる。


8月 山城国土一揆、勃発

 下京に押し入るが、
 細川政元軍らによって鎮圧される。


11月 近江国土一揆、勃発

 日吉神社を襲撃。
 僧兵によって撃退される。


 

 《明応2(1493)年のポイント》

 《関係略図》

 足利義教━┳━義勝
      ┣━義政
      ┃ │
      ┃ ┝━━━義尚
      ┃ │
      ┃ └───────────┐
      ┃             │
      ┣━義視          │
      ┃  │          │
      ┃  ┝━━義材(義稙)  │
      ┃  │          │
      ┃  └──────────┼┐
      ┃             ││
      ┗━政知━━義遐(義澄)  ││
            │       ││
            │       ││
            │       ││
 日野政光━┳━永浚━━女子      ││
      ┃             ││
      ┃ ┌───────────┘│
      ┃ │            │
      ┣━富子           │
      ┗━女子           │
        │            │
        └────────────┘
 『応仁文明の乱』で混乱した室町幕府であるが、
 この年の『明応の政変』により足利将軍家の権威も地に墜ちる。

 細川京兆家の細川政元によるこのような政変を可能せしめたのは、
 『応仁文明の乱』で反・足利義視派だった幕府内部の奉公衆の意思と、
 足利義材の後援者だった日野富子の心変わりであった。

 日野富子が我が子・義尚のライバルであった義視の子・義材を推したのは、
 妹の子であり日野家の血を継ぐ存在であったからである。
 しかし義材が日野家を軽んじ、義視が力が持つに至り、
 富子は義材を排斥する動きに出るのである。
 毒殺しようとさえしているほどである。

 こうして室町幕府は将軍を内部から打倒し、
 新たな将軍を擁立することとなる。

 これで『応仁文明の乱』の呪縛から逃れられるはずであった。
 だが現実はさらに混迷の度を深めることとなる。


 

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