| 【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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| 【文明5(1473)年】 |
| 月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
| 正月21日 | 第103代 後土御門天皇 |
征夷大将軍 足利義政 管領 細川勝元 侍所頭人 赤松政則 政所執事 伊勢貞宗 関白 二条政嗣 |
伊勢貞親、死去 |
前室町幕府政所執事。 将軍足利義政に足利義視のことを讒言し、 殺害しようと企図するが露見してしまい、 失脚していた。 ≫『伊勢貞親』 ≫『足利義政』 ≫『足利義視』 |
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| 3月18日 | 山名持豊、死去 | ||
『応仁文明の乱』における西軍の中心人物。 ≫『山名持豊』 |
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| 5月11日 | 細川勝元、死去 | ||
『応仁文明の乱』における東軍の中心人物。 ≫『細川勝元』 |
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| 12月19日 | 征夷大将軍 足利義尚 管領 畠山政長 侍所頭人 赤松政則 政所執事 伊勢貞宗 関白 二条政嗣 |
足利義尚、将軍就任 | |
父・足利義政、母・日野富子。 またこの日、細川勝元の死後、 後任者が置かれていなかった管領職に、 畠山政長が就任している。 ≫『足利義尚』 ≫『畠山政長』 |
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《文明5(1473)年のポイント》 『応仁文明の乱』の首謀者とも言える 西軍の山名持豊と東軍の細川勝元が相次ぎ亡くなる。 この二人の死により東西両陣営で停戦和睦の機運が高まる。 山名持豊の支援を受けていた畠山義就に対して 畠山政長との講和が提案されるが義就は拒否する等、 継戦の動きも見られたものの厭戦気分が支配的であった。 このようなに時代の分岐点とも言える状況下で足利義政は、 将軍職を幼少の足利義尚に譲る。 |
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