| 【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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| 【寛正2(1461)年】 |
| 月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
| 2月 | 第102代 後花園天皇 |
征夷大将軍 足利義政 管領 細川勝元 侍所頭人 京極持清 政所執事 伊勢貞親 関東管領 上杉房顕 関白 一条教房 |
飢饉の被害が拡大 |
2月には、 京の賀茂川が餓死者で溢れ、 その死体の数は、82000体以上にものぼった。 |
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| 10月24日 | 足利義政、雲頂院の造園を行う | ||
卵塔の背後に、 東山から楓の木を移し、 「庭園の美」を追求している。 ≫『足利義政』 |
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《寛正2(1461)年のポイント》 数年来続いた異常気象によって 引き起こされた飢饉のために京へ避難して来た人民を中心に、 遂に大量の餓死者が賀茂川を埋め尽くす大惨事となった。 このような惨状にも関わらず、 将軍の足利義政を筆頭に幕府首脳は、 梅見に興じ盛大な宴会を連日開催して贅沢の限りを尽くしていた。 多くの人民は、天災ではなく、人災によって、命を失ったのである。 この有様に後花園天皇は、 「残民争採首陽薇 処々閉炉鎖竹扉 詩興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥」 と言う漢詩を作って義政に送り人民の苦しみを理解し、 すぐに救済するように諌めている。 しかし義政には人民を救済しようとする気は極めて希薄で、 自身の趣味である造園に没頭するのみであった。 追い詰められた人民は土一揆を起こすほか術はなく、 この年、河内国で食べ物と徳政を求める土一揆が発生している。 こうした中、願阿弥が六角堂において炊き出しを行い、 飢餓に苦しむ人民を救済していた。 |
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