【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【享徳3(1454)年】
月日  天皇 政体 事項
4月3日 第102代
後花園天皇
征夷大将軍
足利義政
管領
細川勝元
侍所頭人
京極持清
政所執事
二階堂忠行
関東管領
上杉憲忠

関白
二条持通
遊佐国助、神保館を襲撃

 遊佐国助は畠山持国の家臣(被官)。
 襲撃された神保氏も畠山持国の家臣。
 ≫『畠山氏』
 ≫『畠山持国』

 この襲撃事件の背景には、
 畠山氏の家督相続を巡って、
 弥三郎派と義就派に分かれての
 家臣同士による内紛があった。
 ≫『畠山義就』

 遊佐氏は義就派で、
 神保氏は弥三郎派であった。


4月5日 足利義政、畠山義就を引見

 将軍である義政が、
 畠山義就を引見したことで、
 家督相続は義就に有利となる。

 この日、畠山持国は神保父子の頚を検視。

 弥三郎派は京から落ちる。


7月1日 征夷大将軍
足利義政
管領
細川勝元
侍所頭人
京極持清
政所執事
二階堂忠行
関東管領
上杉憲忠

関白
鷹司房平
鷹司房平、関白に就任

 二条持通は6月30日に離職。

8月21日 畠山弥三郎軍、上洛

 畠山弥三郎派の軍勢が決起し、
 上洛し京を武力占拠する状態となり、
 畠山義就は京から脱出する。


8月28日 足利義政、畠山弥三郎を引見

 将軍・義政は4月の騒動時に、
 畠山弥三郎に下していた処罰を撤回する。
 ここに畠山氏の家督相続人は、
 弥三郎と決定される。


9月8日 山城国土一揆、蜂起

 徳政を求めて蜂起したもの。

 これに対して幕府は、
 土倉と酒屋に限定して徳政を実施する。

 しかし借金を帳消しにする代わりに、
 借金額の一割を幕府に納税することを、
 命じた不完全な徳政であった(分一徳政)。


10月 細川成之、赤松則尚を幕府に出仕させる

 これは山名氏の台頭を危惧した
 細川成之(阿波細川氏)が仕掛けた
 用意周到な策略であった。

 山名氏は『嘉吉の乱』により、
 赤松氏の旧領を自領としていた。
 このため赤松氏の復興は死活問題であった。


12月2日 足利義政、山名持豊の討伐を命じる

 赤松則尚の復帰を拒絶する
 山名持豊に対して叛意ありとして、
 将軍・義政は討伐を命じる。
 ≫『山名持豊』

 しかし持豊の娘婿で、
 管領・細川勝元が出兵を
 拒否したことで討伐計画は頓挫する。
 ≫『細川勝元』


12月3日 山城国土一揆、蜂起

 一揆衆は東寺金堂を破壊する。

12月13日 畠山義就軍、上洛

 畠山義就が
 自らの軍勢と共に上洛。
 これによって形勢が逆転し、
 畠山弥三郎が京から脱出することとなる。

 ここで改めて畠山氏家督相続人は、
 義就と決定される。


12月27日 上杉憲忠、暗殺される

 関東管領・上杉憲忠が、
 かねてから対立関係にあった
 鎌倉公方・足利成氏の計略により、
 暗殺される。
 ≫『関東管領』
 ≫『鎌倉公方』


 

 《享徳3(1454)年のポイント》

 この年、畠山氏の後継者争いの内紛劇が、
 引き金となり複雑な対立軸が表面化することとなる。


       畠山満家━┳持国─義就
            ┣持永
            ┗持富┳弥三郎
               ┗政長  

 早い段階で持国は、
 弟・持富の嫡子である弥三郎を後継者としていた。
 しかし庶子である義就が長じるにつれてやはり我が子が可愛くなり、
 義就を後継者にしたことから混乱は始まっている。

 この畠山氏の家督相続争いは、
 細川勝元が畠山弥三郎を密かに支援するなど、
 幕府の有力者の思惑も入り乱れ複雑な構図となる。

 関東でも関東管領の上杉憲忠が、
 古河公方の足利成氏に暗殺されるなど、
 混乱の様相を呈している。

 また山城国では徳政を求める一揆衆によって土一揆が発生。
 それに対して幕府は「分一徳政」を実施するなどその無能ぶりが、
 さらに混乱に拍車をかけることとなる。

 このように、畠山氏の内紛を契機として、
 畠山弥三郎を支持する細川勝元と畠山義就、
 赤松則尚を支持する細川成之と山名持豊、
 鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏等
 様々に入り組んだ複雑な対立軸を、
 浮かび上がらせたのである。

 こうして『応仁文明の乱』の種は、
 この年に撒かれたのである。


 

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