【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【文永3(1266)年】
月日  天皇 政体 事項
3月6日 第88代
亀山天皇
征夷大将軍
宗尊親王
執権
北条政村
連署
北条時宗
政所執事
二階堂行実
問注所執事
三善康有

関白
一条実経
引付衆を廃止

 訴訟事は評定衆によって、
 審議されることとなる。


7月3日 宗尊親王、征夷大将軍を罷免

 同日中に鎌倉を出発し、
 7月20日に京の六波羅探題に到着。
 後日、幕府は宗尊親王に対して、
 所領を献上している。
 ≫『六波羅探題』
 ≫『宗尊親王』


7月24日 征夷大将軍
惟康親王
執権
北条政村
連署
北条時宗
政所執事
二階堂行実
問注所執事
三善康有

関白
一条実経
惟康親王、征夷大将軍に就任
 
 父は宗尊親王。

12月16日 宗尊親王、後嵯峨上皇と再会

 後嵯峨上皇は、
 幕府の意向を気遣い、
 実子の宗尊親王と会おうとしなかったが、
 幕府から対面に関しての咎め無しの奏上を受けて、
 この日、ようやく再会を果たす。


 

 《文永3(1266)年のポイント》

 北条氏得宗家の北条時宗が、
 幕府の執権職に就任するに当たり、
 将軍である宗尊親王の存在が問題となった。

 時宗よりも宗尊親王の方が年長であることが、
 幼将軍を補佐する形で幕府を運営して来た執権政治とは、
 相容れないものがあったためと思われる。

 また得宗家に反感を持つ名越氏が宗尊親王を担ぎ出して、
 軍事行動に出かねない気配を伺わせていたことも、
 時宗が執権職に就くに当たって、
 大きな不安定要因であった。

 そこで幕府は宗尊親王の将軍職を廃止した上で、
 即刻、鎌倉から追放に近い形で京へ送還し、
 惟康親王を将軍職に擁立する。

 こうして時宗の執権職就任への道は、
 着々と準備されたのである。


 

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