【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【建保5(1217)年】
月日  天皇 政体 事項
正月 第84代
順徳天皇
征夷大将軍
源実朝
執権
北条義時
政所別当
大江広元
問注所執事
三善康信

摂政
近衛家実

後鳥羽上皇、水無瀬殿へ遷る

 後鳥羽上皇は、
 洛外に築いた水無瀬殿(離宮)へと遷る。


4月17日 源実朝、造船に失敗

 源実朝は、宋へ派遣するための
 大船を造船させ、この日、由比浦で進水するも、
 沈没する。


6月20日 公暁、鶴岡八幡宮別当に就任

 公暁は、源頼家の子。
 園城寺で修行し鎌倉に帰還した公暁を、
 北条政子は、鶴岡八幡宮の別当とする。
 ≫『源頼家』
 ≫『園城寺』
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11月8日 西園寺公経、失脚する

 「右近衛大将」への補任を巡って
 西園寺公経が漏らした不満の言葉が、
 後鳥羽上皇の知るところとなり、
 蟄居謹慎処分となる。


11月10日 大江広元、出家する

 自らの病気平癒を祈願し出家する。

 

 《建保5(1217)年のポイント》

 後鳥羽上皇が、
 新たに築いた水無瀬殿(離宮)へ遷り、
 明確に鎌倉幕府との距離を取り始める。

 さらに京都では「右近衛大将」への
 任官が叶わなかった西園寺公経の漏らした不満の言葉に、
 尾ひれが付き「鎌倉幕府将軍へ直訴する」との内容となって、
 後鳥羽上皇のもとに届き、故に、公経は、上皇の怒りを買ってしまい、
 蟄居謹慎処分を受けることとなる。

 一方、鎌倉でも非業の最期を遂げた源頼家の遺児である公暁が戻り、
 鶴岡八幡宮の別当に任じられ、表面上は何事も無く平穏な中で、
 不確定要因の芽が膨らみだしていた。

 そして鎌倉幕府草創以来の
 功臣である大江広元が、病のために出家し、
 ひとつの時代の区切りとなった。


 

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