【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【建久3(1192)年】
月日  天皇 政体 事項
3月13日 第82代
後鳥羽天皇
関白
藤原兼実
太政大臣
藤原兼房
左大臣
藤原実房
右大臣
藤原兼雅
内大臣
藤原忠親
後白河法皇、崩御

 父帝は鳥羽天皇。
 母は藤原璋子(待賢門院)。

 久寿2(1155)年即位。
 保元3(1158)年譲位。
 以後、二条天皇・六条天皇・高倉天皇・
 安徳天皇・後鳥羽天皇を擁立し、
 院政を敷いていた。


7月12日 征夷大将軍
源頼朝
政所別当
中原広元
侍所別当
和田義盛
問注所執事
三善康信

関白
藤原兼実
源頼朝、征夷大将軍に就任

 頼朝は建久元(1190)年に、
 権大納言・右近衛大将に任じられているが、
 すぐに辞職し、「征夷大将軍」職への
 執念を見せていた。


8月9日 源実朝、誕生

 源頼朝の次男。
 母は北条政子。

 幼名は千幡。
 後の鎌倉幕府第三代将軍。


9月 重源、浄土堂建立

 重源が播磨国浄土寺に浄土堂を建立。

11月 崇徳天皇廟を改名

 『保元の乱』で敗北し、
 讃岐国へ流罪とされた崇徳上皇の
 御霊を祀るために建立されたもので、
 粟田廟と呼ばれていたが
 「粟田宮」号に改称。


11月 慈円、天台座主就任

 慈円の父は藤原忠通。
 母は藤原仲光の娘。
 同母兄に藤原兼実。


 

 《建久3(1192)年のポイント》

 この年の3月に、
 圧倒的な存在力で君臨して来た後白河法皇が崩御。

 源頼朝による武家政権は、
 治承4(1180)年の侍所の設置に始まり、
 元暦元(1184)年の公文所(のち政所)と問注所の設置によって形作られ、
 文治元(1185)年に頼朝が守護と地頭の任命権を保有したことで、
 実質的には成立していた。

 それが後白河法皇の崩御後に、
 頼朝が軍事大権を有する「征夷大将軍」職に就任したことにより、
 鎌倉の武家政権の存在が名実ともに天皇から承認されるということとなる。

 しかしながらこの当時の幕府は、
 頼朝という個人の存在によって統率されており、
 幕府組織が関東御家人を統率していたとは言えない状態であり、
 頼朝自身も公家政権との協調路線を取っていたことは留意される。

 また武家政権誕生の遠因ともなった『保元の乱』で、
 非業の末路を辿った崇徳上皇の廟が宮とされたのも注目される。

 建久3(1192)年は、以後、『建武中興』の中絶はあるものの、
 およそ700年に渡り日本において武家政権が存続し続ける
 基点となった年として日本史に重要な位置を占める。

 なおこの年以降から武家政権による政体を表示することとし、
 公家政権は摂政関白のみの表示とする。


 

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