【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
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【寿永2(1183)年】
月日  天皇 政体 事項
2月27日 第81代
安徳天皇
摂政
近衛基通
平宗盛、罷免される

 内大臣職を罷免される。

5月11日 『倶利伽羅峠合戦』

 源義仲軍が平氏軍を、
 北陸戦線において撃破する。
 ≫『源義仲』


7月24日 後白河法皇、平氏の監視下から脱出

 比叡山に避難する。

7月25日 平氏、都落ち

 安徳天皇を奉じて、
 三種の神器と共に西国へ落ちる。
 ≫『三種の神器』


7月28日 源義仲、上洛

 安徳天皇を奉じて、
 三種の神器と共に西国へ落ちる。


8月20日 第82代
後鳥羽天皇
後鳥羽天皇、践祚
 
 尊成親王。
 父は高倉天皇。
 母は藤原信隆の娘・殖子。


10月9日 源頼朝、復位

 従五位下右兵衛佐に復位。

11月19日 『法住寺殿合戦』

 源義仲が後白河法皇の御所である
 法住寺殿を襲撃。


11月23日 摂政
藤原師家
藤原師家、摂政就任
 
 父は藤原(松殿)基房。
 源義仲の室となった藤原伊子の
 兄であり、義仲にとって義兄にあたる。
 ≫『藤原伊子』


12月 源頼朝、義仲討伐軍を派遣
 
 弟の源範頼と義経を派遣する。

 

 《寿永2(1183)年のポイント》

 打倒平氏と言う時代の大きな奔流の
 先鋒として上洛を目指す源義仲に対して、
 平氏政権は北陸戦線において決戦を挑むが敗退。

 遂に平氏は西国での再起を期して都から落ちて行く。

 かくして平氏に取って代わったのは、義仲であった。
 しかし京に進駐した義仲軍の乱暴狼藉は、
 その期待と信用を失墜させた。

 ここに後白河法皇は、鎌倉の源頼朝からの要請を受け入れて官位を復す等、
 急速に鎌倉との接近を図る。

 法皇の動きを知り怒った義仲は軍事クーデターを起こし、政治を掌握する。

 そして義仲は節刀授与を経て天皇の直臣としての「征夷大将軍」に就任し、
 史上初めて政治的な意味合いを持った征夷大将軍となる。
 (就任時期を元暦元年とする説もある)

 この義仲の動きに対して頼朝も義仲を討伐すべく
 源範頼と源義経を派遣することとなる。


 戦乱等により京は混乱の極致に陥ったが、一方で、この年は、
 後白河法皇が藤原俊成に対して和歌集の選定を命じる院宣を出しており、
 また西行が「撰集抄」を完成させる等、
 文化面での動きもあった。


 

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