| 【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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| 【養和元(1181)年】 |
| 月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
| 正月11日 | 第81代 安徳天皇 |
摂政 藤原基通 左大臣 藤原経宗 右大臣 九条兼実 |
梶原景時、源頼朝方となる |
梶原景時はかつて 『石橋山合戦』において 源頼朝の命を助けている。 |
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| 正月14日 | 高倉上皇、崩御 | ||
父・後白河法皇、母・平滋子。 正月17日より後白河法皇による 院政が開始される。 |
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| 閏2月4日 | 平清盛、死去 | ||
父・平忠盛。 |
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| 3月10日 | 墨俣合戦 | ||
平氏軍、源行家軍を破る。 平氏軍は平重衡・平維盛・平通盛ら13000。 |
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| 7月14日 | 改元 | ||
「治承」から「養和」に改元。 『後漢書 台トウ伝』が出典。 源頼朝はこの改元を認めなかったと言う。 ※ トウ・・・にんべんに「冬」 |
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| 8月16日 | 源義仲討伐軍、出陣 | ||
平通盛・平経正が、 北陸道追討使に任じられ出陣。 しかし苦戦することとなる。 ≫『平経正』 |
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| 8月 | 源頼朝、後白河法皇に奏上 | ||
この中で源頼朝は、 平氏と和睦したい旨を奏上し、 これを受けた後白河法皇が仲介しようと動くが、 平宗盛はこれを一蹴する。 |
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| 11月25日 | 「建礼門院」号宣下 | ||
平徳子に女院号が下される。 父・平清盛、母・平時子。 ≫『建礼門院徳子』 |
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《養和元(1181)年のポイント》 この年、平清盛が描いていた 政権構想の中核であった高倉上皇が崩御。 その上皇の後を追うように清盛自身も亡くなったことで、 我が世の春を謳歌して来た平氏政権は大きく揺らぐこととなる。 各地で「反・平氏」の武装蜂起が相次ぎ、 その対応に奔走することとなる。 中でも源義仲が「反・平氏」の急先鋒として存在感を増し、 平氏が派遣した義仲討伐軍は北陸で苦戦する。 |
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