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【平治元(1159)年」】
月日  天皇 政体 事項
正月 第78代
二条天皇
関白
藤原基実
太政大臣
藤原宗輔
左大臣
藤原伊通
右大臣
藤原基実
内大臣
藤原公教
平知盛、蔵人補任

 平清盛の四男。生母は平時子。
 (正月7日補任。
 正月21日従五位下叙爵により離官)


2月 平清盛、寺院建立

 白河千体阿弥陀堂建立。

4月20日 「保元」から「平治」へ改元

 『史記』の「天下於、是大平治」に拠る。

9月 橘逸勢社祭、挙行

 後白河上皇が臨幸。

12月4日 平清盛、熊野参詣に出発

 平氏一門を率いて都を留守にする。

12月9日 『平治の乱』勃発

 藤原信頼・源義朝、挙兵。
 三条殿を焼き討ちし、
 後白河上皇を幽閉する。


12月20日 平氏軍、反撃開始

 平氏軍は内裏へ攻撃を仕掛ける。
 待賢門(藤原信頼・源義平が守備)を平重盛、
 郁芳門(源義朝が守備)を平頼盛がそれぞれ攻撃。

 ≫『平重盛』

12月25日 平清盛、都へ帰還

 平氏軍、二条天皇・後白河上皇の奪回に成功。

12月26日 六条河原の戦い

 平清盛、源義朝と決戦を行い勝利を収める。

12月27日 論功行賞

 平重盛、伊予守。
 平宗盛、遠江守。
 平経盛、伊賀守。
 ≫『平経盛』
 平教盛、越中守。
 平頼盛、尾張守。

12月29日 源義朝、死去

 長田庄司忠致の裏切られ暗殺されたとも、
 鎌田正清の介錯により自刃したとも言われる。


 

 《平治元(1159)年のポイント》

 『保元の乱』(1156年)以後、
 公武に芽生えた問題が噴出した年である。

 公では後白河天皇と結ぶ藤原信西(通憲)と、
 二条天皇の親政を企図する藤原経宗・維方が対立。
 さらに後白河天皇派であった藤原信頼も藤原信西と対立。

 武でも『保元の乱』の功績により知行国を四ヶ国とした平清盛と、
 僅か一ヶ国しか与えられず、しかも父・源為義の赦免を、
 藤原信西に拒絶された源義朝が対立。

 このように対立軸が複雑に交錯する中で、
 平清盛によって作り出された軍事力の空白の前に、
 藤原信頼が二条天皇派と源義朝を率いてクーデターを決行。
 藤原信西は逃亡するが追い詰められ自害する。

 しかし平清盛の的確な対応策の前に、
 後白河上皇と二条天皇を奪われた藤原信頼・源義朝は、
 単なる賊軍と化してしまい敗北。

 この『平治の乱』の結果、
 公武の権力は平清盛を中心とする平氏に集中することとなり、
 それは即ち平氏政権が産声を挙げた瞬間でもあった。


 

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