【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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【天平14(742)年】 |
月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
正月5日 | 第45代 聖武天皇 |
知太政官事 鈴鹿王 左大臣 橘諸兄 中納言 藤原豊成 巨勢奈弖麻呂 |
大宰府、廃止 |
『藤原広嗣の乱』の際に、 大宰府が、反・中央の拠点となったことが、 影響したと思われる。 ≫『藤原広嗣の乱』 |
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正月23日 | 東北に赤い雪が降る | ||
陸奥国黒川郡より北で、 赤い雪が降り二寸の積雪を観測したことが、 報告される。 | |||
5月10日 | 斉明天皇陵、崩落 | ||
5月13日になって鈴鹿王を監督として、 修築にかかる。 ≫『鈴鹿王』 | |||
8月5日 | 「太秦」姓を下賜 | ||
恭仁宮の垣の築造に功績のあった 秦下嶋麻呂に対して、官位を従四位下とし、 銭100貫、あしぎぬ100疋、麻布200端、 真綿200屯を与えた上で、 「太秦」姓を下賜する。 | |||
8月11日 | 天皇、離宮造営司を任命 | ||
聖武天皇は紫香楽村へ行幸するために、 紫香楽に離宮を造営する離宮造営司に、 智努王らを任命する。 | |||
8月27日 | 天皇、紫香楽宮へ行幸 | ||
鈴鹿王、巨勢奈弖麻呂、紀飯麻呂らが、 恭仁京留守官に任命され、 大伴牛養、藤原仲麻呂らが、 平城京留守官に任命される。 9月4日に恭仁京に帰還。 ≫『大伴牛養』 ≫『藤原仲麻呂』 | |||
10月12日 | 塩焼王を捕縛 | ||
塩焼王は新田部皇子の皇子。 朝廷は、塩焼王と女孺4人を捕縛し、 平城京内の監獄に収監する。 ≫『塩焼王(氷上塩焼)』 | |||
10月17日 | 塩焼王、流罪となる | ||
塩焼王を伊豆国へ流罪とする。 女孺らも流罪に処される。 | |||
11月2日 | 大野東人、死去 | ||
従三位。参議。 大野果安の子。 ≫『大野東人』 ≫『大野果安』 | |||
12月29日 | 天皇、紫香楽宮へ行幸 | ||
鈴鹿王、巨勢奈弖麻呂、 紀飯麻呂、藤原仲麻呂らが、 恭仁京留守官に任命される。 | |||
《天平14(742)年のポイント》 天平12(740)年に勃発した 『藤原広嗣の乱』の余波はこの年にも響いている。 まず大宰府を廃止し、 九州における政庁としての機能を停止した上で、 中央政府が直接的に軍事監視下に置く方針が採られたのである。 そしてこの年を象徴する出来事は、紫香楽宮への聖武天皇の行幸である。 それは大きな叛乱劇と、度重なる疫病によって、 この上無く忌まわしい都となった平城京の 事実上の棄都に等しいものでもあった。 これらの都を巡る背景には、 都を自らの勢力下に置こうとする橘氏の謀略と、 それに反対する光明皇后を中心とした藤原氏の抵抗が、 激しくせめぎあっていた。 この年、偶然にも『藤原広嗣の乱』において朝廷軍の大将軍を務め、 奈良時代最大の叛乱劇を鎮圧した 大野東人が亡くなっている。 |
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