| 【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】 |
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| 【天武天皇10(681)年】 |
| 月日 | 天皇 | 政体 | 事項 |
| 2月25日 |
第40代 天武天皇 |
天武天皇、律令制定を命じる 草壁皇子、立太子 |
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天武天皇・菟野皇后、 国家事業として律令の制定を命じる。 また同日、草壁皇子が立太子し、 政務を執るようになる。 ≫『草壁皇子』 |
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| 2月29日 | 阿倍夫人、薨去 | ||
天智天皇の嬪。 阿倍内麻呂の娘・橘娘と思われる。 ≫『阿倍内麻呂』 |
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| 3月17日 | 天武天皇、帝紀・上古諸事の編纂を命じる | ||
天武天皇は、 川島皇子・忍壁皇子らに命じて、 帝紀及び上古の諸事について、 記録・校訂することを命じる。 ≫『川島皇子』 |
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| 4月2日 | 禁式九十二条を制定 | ||
親王から一般庶民に至るまで 全ての日本国民の服装・装飾品について、 仔細に規定される。 |
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| 4月17日 | 高句麗から外交使節が来朝 | ||
卯問が筑紫に来朝。 5月26日、帰国。 |
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| 5月11日 | 皇祖の御魂を祀る | ||
同日、詔勅が出され、 朝廷の女官に対する賄賂が禁止される。 |
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| 6月5日 | 新羅から外交使節が来朝 | ||
若弼が筑紫に来朝。 9月20日、帰国。 |
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| 7月4日 | 外交使節団を派遣 | ||
遣新羅使として、 大使に采女竹羅、小使に当麻公楯を起用。 遣高麗使(遣高句麗使)には、 大使に佐伯広足、小使に小墾田麻呂が、 それぞれ起用された。 9月3日に帰朝する。 |
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| 8月20日 | 多禰島の地図が献上される | ||
多禰島(種子島)へ派遣していた使者が、 島を調査し地図を作成し献上する。 また多禰島の住人の代表を同行し、 9月14日、歓迎の宴が催される。 |
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| 10月20日 | 新羅から外交使節が来朝 | ||
金忠平と金壱世が来朝。 金・銀・銅・鉄・錦などが献上され、 天武天皇・菟野皇后・草壁皇太子にも、 別に金・銀・霞錦などが献上される。 翌天武天皇11(682)年2月12日に帰国。 |
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| 10月25日 | 天武天皇、群臣会議を企画 | ||
天武天皇は、 大山以下小建以上の百官から、 直接、国政に対する意見を聴取しようと企画。 しかし実現しなかった。 |
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| 11月29日 | 叙位 | ||
中臣大島・物部麻呂・粟田真人・ 書智徳・高向麻呂・田中鍛師・田部国忍・ 曾禰韓犬・柿本猿(けものへんに「爰」)に、 小錦下。 ≫『中臣大島』 ≫『物部(石上)麻呂』 ≫『粟田真人』 |
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《天武天皇10(681)年のポイント》 この年、草壁皇子が立太子し、 正式に天武天皇の後継者となる。 同時に律令の制定が命じられ、 さらに帝紀・上古諸事の編纂事業も行われるなど、 草壁皇子の皇位継承へと具体的に国家が動き出す。 また後に朝廷の中心人物となる物部(石上)麻呂・中臣大島らが 起用されるなど「草壁天皇」体制へのシフトが開始される。 この時点では新羅が後継者としての草壁皇太子を、 いち早く祝しているのも注目される。 |
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