【よろパラ 〜文学歴史の10〜 年表】
≫【よろパラ年表】≫【TOPページ】
【敏達天皇14(585)年】
月日  天皇 政体 事項
2月15日 第30代
敏達天皇
大臣
蘇我馬子
大連
物部守屋
蘇我馬子、仏塔建立

 大野丘の北方に建立。
 法会の設斎を行う。
 ≫『蘇我馬子』


2月24日 蘇我馬子、罹患

 占いにより父・蘇我稲目が、
 かつて祀った仏の祟りと出たために、
 その石像を祀ったところ国内に疫病が流行し、
 死者が多数出る事態となる。


3月1日 物部守屋、排仏を奏上

 守屋は中臣勝海と共に、
 疫病の流行の原因は馬子が仏教を
 広げようとしているからであると天皇に奏上。
 ≫『中臣勝海』


3月30日 物部守屋、寺院襲撃

 守屋は仏塔を切り倒し、
 仏像も焼き払い、焼け残ったものは、
 難波の堀江に捨てて処分した。
 また善信尼ら尼を集め法衣を剥ぎ取り、
 海石榴市で鞭打ち刑に処した。


6月 天皇、蘇我馬子の信仰を赦す

 天皇は馬子に対して、
 個人的に仏教を信仰することを認めて、
 善信尼らを馬子のもとに返した。
 馬子は新たに寺院を建立する。
 ≫『善信尼』


8月15日 敏達天皇、崩御

 『古事記』では崩御日を、
 敏達天皇13(584)年4月6日と記す。

 殯宮で馬子と守屋が対立。
 三輪逆は殯宮周辺を厳重に警備する。
 また穴穂部皇子が皇位への野心を、
 明らかにする。
 ≫『三輪逆』
 ≫『穴穂部皇子』


9月5日 第31代
用明天皇
大臣
蘇我馬子
大連
物部守屋
用明天皇、即位

 父帝は欽明天皇。
 母は蘇我堅塩媛(蘇我稲目の娘)。
 磐余に池辺双槻宮を造営。


9月19日 酢香手姫皇女、斎宮となる

 以後、推古天皇の時代まで、
 伊勢神宮に仕える。


 

 《敏達天皇14(585)年のポイント》

 蘇我馬子が仏教を広めんと行動し始めた矢先に、
 疫病が発生し国内が大いに乱れたことを排仏派の物部守屋によって、
 攻撃され仏教が危機的な状況に直面する。

 しかし敏達天皇が馬子に対して、
 個人的な信仰を赦したことで仏教は命脈を保つことが出来た。

 このように仏教派と神道派とのバランスを取って来た
 敏達天皇が崩御するに至り、馬子と守屋の対立は先鋭化し、
 両者が激突するのは時間の問題となったのである。


 

≫【よろパラ年表】≫【TOPページ】

 (C) よろパラ 〜文学歴史の10〜