牧師室より

古い話で恐縮だが、高校生に「生物」の授業をしていたころ、一年の最初に、教科書の目次の、単元の並び順について考える授業をしていた。当時、多くの教科書では、1章で細胞のしくみを学び、次章から、呼吸や光合成などの生体内化学反応、次に遺伝子の構造や機能など分子生物学の初歩へと進むのが教科書前半の流れであった。後半では、動植物の体の組織・器官の仕組みから個体レベルの恒常性、そして遺伝学など種の単位での仕組み、さらに進化や生態系について、というような順で学ぶ。直感的な表現で言えば、前半で、生物をだんだん細部へと目を近づけて眺め、後半で、だんだん視野を広げて地球上の生物全体を把握する方向へ向かうというような規則性が学びの仕方として示されている。そのことに、ディスカッションを通して気づくという内容の授業だった。何かを観察し、推論して理解する時に、どのスケールで取り組むのか、という意識を明確に持つことの重要性や、当時の生物学のトレンド(流行)が、細胞単位で生物を捉えることにあると知ることも授業目標だった。  今年、映画『教育と愛国』を観てびっくりしたのは、愛国教育に熱心なある歴史学の大家が、歴史の学習に考えることは必要ない、正しい歴史認識を身に着けるだけで十分だ、と持論を述べておられたことだ。この対局にあったのが、戦争責任や人権問題に取り組むことを大切にしている教師たちの活動だ。『ともに学ぶ人間の歴史』(発行:学び舎)という中学社会の教科書が紹介されており、興味を持ったので入手した。学びの中で「問いを生み出す」ことの大切さが教科書の構成にも見て取れる。  8月の平和聖日学習会で、国語教科書が取り上げられる。今からとても楽しみだ。     (中沢麻貴)