牧師室より

哲学者キルケゴールは、著書『哲学的断片』の中で、「信仰は与えられるものである」と述べている。この言葉から読み取れるのは、「信仰は人間の努力だけで成るものではない」という信仰理解だ。  キルケゴールは、キリスト教の本質を「逆説」だと表現している。それは「神が人となった」宗教だからである。神とは永遠の存在であり、死とは無関係の存在であったはずだった。ところがその神が地上に誕生し、十字架に架けられ、死を迎えるという逆説的事件が起きた。キルケゴールは、この逆説がキリスト教の根幹をなしていると考えたのである。そしてこの逆説を受け入れることができたのは、「信仰は与えられるもの」だからだ、ということなのだ。 しかし多くの信仰者の場合、どうだろうか。自分は神様に招かれて教会を訪れたと考えているだろうか。むしろ自ら救いを求めてやってきて、教会のドアを叩いたと思っているのではないだろうか。自分で自分を救う努力をしたのだとも言える。その結果、教会に通うようになり、受洗したと受け取っている人は、おそらくおられるだろう。 もしキルケゴールが語るように、「信仰は与えられるものである」のだとすれば、キリスト者はどこかで、「信仰的挫折」を経験する、ということになる。信仰におけるパラダイム(価値観)転換が起きるという意味だ。キリストの体なる教会は、人間の努力だけで成るものではない。矛盾に満ちつつも、希望ある共同体として歩むことができればと、横浜港南台教会の創立記念の日に思う。  (中沢譲)