牧師室より

小井沼眞樹子牧師から勧められ、「聖書と現代社会 大田道子と佐藤研を囲んで」を読み、大変考えさせられた。

大田氏は古代オリエント史・旧約聖書の学者で、新共同訳聖書の翻訳・編集に携わってこられた。現在、NGO「地に平和」を建ち上げ、パレスチナ人の支援活動をし、国内では「聖書の学びの会」をしておられる。

大田氏は下記のように語っている。「教会が本当は何をしたいのか、イエスは本当は誰なのかということを置き去りにして、これまで1,500年間に構築された枠の中で、なんとかそれをもうちょっと生き返らせて守っていこうと、それこそ護教的になるから、自分たちの外でどれほどの運動が起こっているのかが解からない。福祉においても、国連の幾つかの機関の働きも、諸々のNGOの働きも、そういうことを考えていなくても人を助けたくて危ないところに行ってしまう人、そういう人々を、どうすれば教会が、同じことをしている人々だと認められるのか、それを自分たちのモノポリー(独占)だと思わないで。私は社会がもう先に行っていると思うんです。そこに新しいイエスの顔がある。この難民の群れの中にイエスの顔が見える、と言えないなら、教会は戸を閉ざしたらいいと思います。」

既成の体制に安住している教会を批判し、抑圧の中で虐殺されているパレスチナ人にイエスの顔があると彼らとの連帯を深めておられる。

佐藤氏は東京大学大学院で「西洋古典学」を学び、岩波書店の「新約聖書」の共観福音書の翻訳を担当された新約学者である。佐藤氏は上記の大田氏の発言を受けて下記のように語っている。「ほんとうにそう思いますね。イエスというのは、モノポリーなんかできないんです。要するに、命を捨てて奈落の底から生きたようなときに人間から何がでてくるか、どういう深淵が開いて、どういう光芒が発せられるか。そういうことなのです。」

四世紀に宗教体制と教義が整い、キリスト教が成立した。それが、良い意味でも悪い意味でも世界にキリスト教を広める力になったと思う。お二人は聖書に立ち帰って、イエスの生と死を凝視する、また混迷している現代を聖書から見直す中で新しい生き方が表れてくると力説しておられる。

今日は「パックス・アメリカーナ」といわれる時代である。米国の平和と繁栄を維持するため、理不尽がまかり通っている。イエスが受けた同じ受難と死はいたるところで見られる。その受難と死にどのように関わるかが問われている。