牧師室より

オウム真理教の教祖・麻原彰晃の死刑が確定した。彼を「神」とする弟子たちは、社会性を度外視して、彼の言いなりになる非道を歩んだ。人を神のようにすることから起った悲劇である。この形は歴史上、いくらでも見られる。ヒトラーは自分への忠誠を強要した。それがヨーロッパ社会を瓦礫とした。天皇を「現人神」とする信仰によって、幾多の人々が無残な死を遂げた。毛沢東は中国建国後、神になった。それが「文化大革命」という名の下で、歴史を逆転させた。麻原の場合、個人であるから異常性が見える。国家規模になると大き過ぎて見えなくなる。しかし、その構造は全く同じで、人間の奴隷化をもたらす。人や権力を神として絶対服従することは、思考を停止させ、陶酔する快感がある。

聖書は非人間化する陶酔を認めない。モーセは出エジプトしたイスラエルの難民を40年間、荒れ野を導いた。この苦難は想像を絶する。神の約束したカナンに入る時、神はモーセをカナンを見渡せるピスガの山頂に呼び出す。そして「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」と言われる。目の前にみせて、あなたは入れないという言葉は、あまりに残酷である。この時、モーセは「120歳であったが、目はかすまず、活力もうせていなかった」とある。モーセの無念さを痛感する。

しかし、モーセがカナンに入っていたら、彼は神のように崇められたに違いない。神はそれを許さなかった。ここに聖書の告げる神信仰があると思う。出エジプトはモーセの成した遺業ではなく、神の示された憐れみである。人や権力を神にしてはならない。あなたは何者にも支配されない主体性を持つ「あなた自身であれ」。この信仰が救いを約束する。