牧師室より

 井上良雄先生(以下−先生)はカール・バルトの膨大な著作の翻訳や「神の国の証人ブルームハルト父子」という名著を残された。そして、日本の教会で起った様々な出来事に対し、福音的な発言をされ続けた。その先生が亡くなられ3年が経った。11名の牧師・神学者が「井上良雄研究『世のための教会』を求めて」という論文集を出された。先生の神学的実存の中から語られた確かな言葉に改めて感動した。

 先生は、平和を求めて「キリスト者平和の会」を立ち上げたが、途中で脱会された。そこには、色々な論争と対立があった。先生の平和運動論は「中間時」という言葉がキーワードである。主イエスの十字架と復活によって「すでに」平和は与えられている。しかし、それは全きものではなく、終末に与えられるから「いまだ」である。この「すでに」と「いまだ」の間に生きている私たちの時間を「中間時」という。

 先生は下記のように語っている。

「中間時にある者として『すでに』と『いまだ』の緊張関係の中に置かれた者として、生きるより他はないでしょう。あるいは、『いまだ』という陰に覆われたこの世界の中にあって、『すでに』来たった光を知らされた者として、生きるより他ないでしょう。この光を指し示すような政治的現実に対して『然り』と言い、この光を覆い隠すような現実に対して『否』を言いつつ生きるより他ないでしょう」。

 「すでに」の方向への逸脱は絶対平和主義に走り、地上は「いまだ」神の国ではないという視点が忘れ去られる。「いまだ」の方向への逸脱は社会科学的認識に立って、信仰とは無縁の場所で捉えるようになる。そこでは、聖書的・福音的理解は失われ、世俗主義的な二元論に陥ってしまう恐れがある。先生は、両者の過ちを避けながら、キリスト中心の終末論的平和主義を貫かれた。この緊張を支えるのは福音の光のリアリティーを喜ぶ信仰であろう。

 私たちはキリストによる光を知っている。その光の下で、終末を望みつつ、具体的な問題に対し「然り」と「否」を表明しながら平和を模索するのである。