牧師室より

 主イエスは手に釘を打たれ、わき腹を槍で刺され、十字架上で息を引き取られた。その主イエスは三日目に復活された。弟子たちに手とわき腹を見せて復活の事実を示し、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と宣教への使命を与えられた。

 この時、トマスは弟子たちと一緒にいなかった。弟子たちはトマスを探し出し「わたしたちは主を見た」と告げた。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と復活など虚偽だと言い張った。弟子たちは、そのトマスを8日間も引きとめた。8日間、弟子たちはトマスから馬鹿にされ続けただろう。それでもトマスを放さなかった。

8日の後、復活した主イエスはトマスに現れ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と傷跡を見せて迫った。 

 この時、トマスが主イエスの手とわき腹に指を入れたかどうかは記していない。ただ「わたしの主、わたしの神よ」と言っただけであると記している。

古来、このシーンを多くの画家が描いてきた。16世紀のカラヴァッジオは「トマスの不信」と題する、有名な絵を書き残している。その絵はトマスが、主イエスのわき腹に指先を入れ、傷口を更に開くようにしている。トマスの顔は疑いと不信そのものである。

私は、トマスが指を差し入れたとはどうしても思えない。目の前に釘跡とわき腹を見せられ、とても指を入れることなどできないと思うからである。

東京藝術大学美術館で528日(日)までドイツ表現主義の彫刻家と言われるエルンスト・バルラハの作品展が開かれている。先日、観てきた。代表作の「再会」があった。「再会」とは主イエスとトマスの再会で、まさにこのシーンである。

バルラハはトマスが傷跡に指を入れるのではなく、逆に主イエスがトマスの両脇に手を入れて抱きかかえている構図で表している。しかも、主イエスが手を離せば、トマスは倒れそうである。復活の主イエスの命の確かさとトマスの崩れ落ちる不信を対象的に捉えている。私はこの解釈に大賛成である。妻は放蕩息子の帰還の姿でもあると言う。

主イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と語られた。復活は私たちの疑いと不信が主イエスに抱きかかえられているような救いなのである。