牧師室よ

KT姉が90歳の誕生日を迎える5日前に召された。お見舞いに行こうと病院に向かっていた。病院に着く直前に携帯電話が鳴り、ご子息から「今、亡くなった」という連絡を受けた。

K姉はお母さんが卒業した立教女学院で学ばれ、そこで洗礼を受けられた。初めてキリスト教に触れ、多くの素晴らしい信仰の先輩たちに憧れ、受洗された。そして、戦争色が深まっていく時、軍医さんと結婚された。教会からは離れた。戦後、開業医になられたご主人を支え、与えられた4人の子供の育児に、多忙な生活を送られた。大変な時代であったが、懸命に働き、輝いていた30数年間であったと思う。58歳の時、ご主人が亡くなり、数年後、ご長男の住む洋光台に越してこられた。洋光台では人のためになることをしたいと、点字図書製作の資格を二年かけて取り、点訳を励まれた。

その頃、私たちの伝道所に見えるようになり、1984年に転会された。女学生の時、洗礼を受けたことが教会に導かれることとなり、「光を見出した気持ち」であったと「若木」に書いておられる。礼拝はもとより、洋光台家庭集会にも出席され、HM姉、KM姉、TT姉などと良い交わりを持たれた。3姉妹たちは先に召され、寂しい思いをしたであろう。K姉は自分の葬式は、茨城の親戚がキリスト教徒でないので、教会でしてもらえないかも知れないが、自分としてはHM姉のように教会でしてもらいたいと言っておられた。ご遺族は教会ですることを当然とし、前夜式と告別出棺式を行なった。

2000年に軽いアルツハイマーになり、舞岡病院に入院された。K姉はこの入院に対し、当初は激しい拒絶を示された。認知症の方が多く、友だちを作ったり、会話することは難しかった。私の訪問は喜んで受け入れてくださったが、老いていく自分を見せたくなかったのであろうか、教会員の訪問は拒まれた。しかし、教会からの寄せ書きカードを喜び、私物は置けなかったが、大切に持ち続けておられた。

戦前、戦中、戦後の激動の中、家族を支え、人に奉仕しようと誠実に勤勉に励み、そして天を望んで逝かれた。