牧師室よ

永眠者記念礼拝後の墓前礼拝で、N姉、T兄、T姉の納骨式をした。教会墓地には15名が納骨され、だんだん賑やかになっている。墓地に行ってみると、誰かがお花を飾っている。

仏教は先祖を大切にするが、キリスト教はそうでないと批判されたことがあった。キリスト教は先祖を拝む対象にはしないが、最も先祖に敬意を払う宗教である。聖書は、その人を紹介する場合、先祖の名を連ねて出自を明らかにする書き方をしている。エジプトの宰相になったヨセフは死ぬ時「遺骨を先祖の墓に葬ってくれ」と遺言する。400年後の出エジプトの時、モーセはヨセフの遺骨を携え上ったとある。聖書の民は先祖との深い関わりの中で生きた民族である。

仏教では法事を大切にする。お寺から催促されて行なっているとも聞く。私は、遺族に求められた時に記念会の司式を行なっている。法事や記念会は遺族の絆、交わりを深める意味はある。しかし、教会から催促することはない。

年に一度の永眠者記念礼拝と墓前礼拝を守り、この日に召天者を記念することを大切にしたいと考えている。召天者を記念し、彼らの生と死を分かち合うことによって、私たち自身が豊かにされていく。毎年遺族に案内状を送っているが、返事のない方、住所不明になった方もおられる。いささか寂しい。写真を教会に預けておられる方は講壇に並べられ、ありがたい。

日本は大家族から核家族に変った。昔のように「累代墓」を作っても、墓を守れない状況になっている。教会墓地のような共同墓地は忘れられることなく、良いと思う。赴任直後から、会堂建設が目の前の仕事であった。と同時に、私は教会墓地を求め続けた。十数か所、訪ねたであろう。現在の墓地を取得できて嬉しく思っている。召されたら、あそこに行くという安心は信仰生活を確かなものにしてくれる。

人間の死はどのような死であっても大きなメッセージを残してくれる。それをしっかり受けとめる中で、私たちは生きるということを学ぶ。私は召天者に多くを教えられ、支えられてきた。死と向き合う時、死を超えた永遠への思いを示される。その永遠を思うことが神信仰の出発点である。主イエスは十字架の死から復活された。この出来事に私たちの真の救いがある。