牧師室よ

 「M.L.キング研究会」に参加してきた。今年は「人間の盾」としてバグダッドに留まった木村公一牧師を講師に迎えた研修会であった。木村牧師は「人間の盾」として参加した動機や米軍の攻撃による恐怖の体験を話された。28名の参加者があり、多様な議論が交わされた。木村牧師は帰国後、200回近く講演に招かれているという。キリストの福音を神学用語ではなく、普通の言葉で語ることを心がけていると話された。神は歴史に直接関わっておられるので、出来事の中から福音の伝達は可能であるとの信仰であろう。

 講演の中で、興味深く聞いた二点と私の感想を書きたい。現代は二つのパラダイム(規範)がある。一つは「国家安全保障パラダイム」で、これは善悪二元論に立つ。その特徴は @敵の存在を認める、A暴力を恣意する、B武力干渉をする、C強兵と軍備の拡大を目指す。ここでは恐怖と懐疑が支配する。もう一つは、「民衆の社会的安全保障パラダイム」である。特徴は @解決すべき問題の存在を認める、A置き換えをイメージする、B紛争の緩和、解決しようと発想する、C和解と共生を模索する。ここでは信義と信頼が支配する。

 国家安全保障パラダイムと民衆の社会的安全保障がぶつかり合っているが、ジャーナリズムは前者を強調して報道している。しかし、後者も実際的な力は十分にあり、これを育てていく必要性がある。そして、民衆の社会的安全保障パラダイムは福音的であると語られた。

 最近の議論は「あれか、これか」の二者択一を迫る議論が多い。典型的な例が、ブッシュ大統領の「私に味方しない者はテロリストだ」という言葉に表れている。味方と敵を分けると対話の可能性がなくなり、争い、戦争となる。そして、勝者と敗者を分け、勝者を善玉、敗者を悪玉という奇妙な分類が起こる。人間の社会では絶対的な善は見えない。より善、より悪という選択を互いの対話において進めるしかない。物量の力ではなく、言葉を信じ、忍耐強く対話することを学ぶべきであろう。

 もう一点は「殉教」に関することである。2004年度の統計では101名のジャーナリストが殉職した。彼らは命を賭してイラク戦争の実態を世界に発信しようとしたのである。木村牧師が米英軍の攻撃下に留まっていた時、各国の大使館は閉鎖していたが、バチカン国の大使館には数名の神父がおられた。一人の神父が「私たちは死を覚悟しています」と語られ、衝撃を受けたと言われた。日本のキリスト教には「殉教の神学」はないのではないかと深く自問されたそうである。中南米、フィリピンなどでは今も神父、牧師たちの殉教は続いている。彼らは主イエスの贖罪死につながる信仰にあることは確かである。