牧師室より

 8月の第1主日は横浜磯子教会CSとの合同夏期キャンプだったので、第2主日を「平和聖日」として守った。今年は岩井健作牧師を説教と講演にお招きした。

 説教は詩編130篇から説き明かされた。詩編130篇はエルサレム神殿への巡礼の歌で、4連からなっている。巡礼、また礼拝は自分中心から神が中心に転換する出来事である。詩編130篇も主語と目的語が循環し、4連はそれぞれ「呼ばわる、罪、待つ、慈しみ」という主題を歌っている。1連は、人は苦悩の中から神に「呼ばわる」。2連は、神のみが「罪の赦し」を与えてくださる。3連は、人はこの神に望みを置き、ひたすら「待ち望む」。4連は、神は贖い主として「慈しみ」を約束している。人の呼びかけに応える神の確かな救いを歌っている。岩井牧師はこの詩編を繰り返し読み、事ある毎に教えられ、支えられてきたと話された。そして、原爆の図を描いた丸木位里氏の戦争を止められなかった罪責の深刻な言葉を紹介された。しかし、戦争を止められない私たちでも平和を求め(呼ばわる)、平和を実現する者として力を尽くす(実践しながら待つ)中に、神の慈しみは必ずあると力説された。人の心の荒廃と終らない戦争に無力感に陥りがちだが、神の慈しみに勇気づけられた。

 午後の講演は「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白−以下(戦責告白)」について話された。教団は戦争遂行のため、権力によって合同させられた。それは必然的に、アジア・太平洋戦争に積極的に協力し、アジア諸国への加害者としての振る舞いになった。戦後は、手のひらを返したように、米国のキリスト教の流行を謳歌した。

 岩井牧師のような中堅牧師たちは戦責告白を出さなければ、福音に生き、それを証し、アジアの諸教会に認められる教会になれないという思いがつのった。鈴木正久牧師を中心に戦責告白がようやく出された。この戦責告白に関し、賛否両論が激突した。戦責告白には不備な点もあるが、時代の苦悩を担い「隣人と共に生きる」視点が今日の状況の中で告白されている。

私が伝道者になった年に出され、これらの激論を見聞きし、福音に従うことの困難さを知らされた。

 岩井牧師は、教団の罪責を担いながら、個々人が主体的に反戦、平和への歩みを展開し、そして、それを支える教会の礼拝、祈り、交わりの大切さを訴えられた。