◇牧師室より◇
4月29日は、故昭和天皇の誕生日で「みどりの日」とされていた。教会は、この日を「バザーの日」として25年来続けてきた。平成天皇の誕生日は12月23日で、この日には子どもの教会のクリスマスとキャロリングを行なってきた。両天皇の誕生日の休日を私たちの教会は有効に活用してきた。
ところが、4月29日の「みどりの日」が「昭和の日」と改定された。衆議院で可決し、参議院では大きな議論になることを期待していたが、何なく通過した。報道では小さく扱われただけである。「昭和の日」制定は、戦前の「明治節」を想起させる。明治節は明治天皇の誕生日で、明治天皇の遺徳が偲ばれ、この日には戦果を上げるために無謀な攻撃をし、戦死者が特別に多く出た。
「昭和の日」の制定は昭和天皇をたたえる意図をはっきり持っている。裏返せば、昭和天皇の名で行なわれた戦争責任を不問にするだけでなく、戦争を肯定し、賛美する目的である。
学校では「日の丸・君が代」が強制され、内心の自由を求めて反対する教師たちは行政処分を受けている。
天皇制と靖国神社問題に関する裁判は全国で30以上起こされているだろう。今まで出た判決は、ほとんど憲法判断を避けて出されている。先月4月26日、「君が代」の強制に反対した教職員が受けた減給処分の取り消しを訴えた「ココロ裁判」の判決が福岡地裁から出された。減給処分は取り消され、希望の火をつないだ。しかし、思想・良心を侵す「違憲」という文言はなかった。原告たちは、判決文には国家優先の思想が随所にのぞき、強制についての認識がきわめて希薄であると「うれしさ半分」と言っている。
人間の尊厳の核である思想・信教の自由が保障される時、国民は強制されなくとも、「国を愛する」と言うだろう。天皇制の下で国民を統合しようとする戦前に回帰する政策は「国民主権」の民主主義に明らかに反する。「戦後民主主義」と言われたものは何であったのか。
日本はいたずらなナショナリズムを掻き立てている。私には、国家としての自信と誇りの喪失がナショナリズムという「幻想」に走らせているように思える。15年戦争によって、甚大な被害を受けたアジアの国々は「昭和の日」の制定を侵略戦争の反省がないと受けとめるだろう。アジアから孤立すれば、日本は立ち行かなくなる。