牧師室より

荒井献先生が「イエスと出会う−信に拠って生きるとは」と「『強さ』の時代に抗して−右傾化する時代に警鐘を鳴らす」を上梓されている。読んで、心が洗われる思いがした。先生は本当に誠実な方であると思った。誠実とは事実の前に立つことであろう。変わることなく、忠実に問い続ける姿勢に感銘を受けた。また、先生は本当に愛情深い方であると思った。聖書に関する論文やエッセイだけでなく、個人的な経験、出会いと別れも書いておられる。そこには、先生の優しい心遣いが伝わってくる。

著者の人や社会への愛情を読み取れる本が読者の心を打つ。文章を書く時、隣人への愛があるかどうかを誠実に吟味することが大切であると諭された。

私は18歳の時、洗礼を受けた。聖書を読み続け、私なりに苦闘してきた。その私の今は、次のように考え、いつも話している。聖書はあくまで古代文書であるから、歴史的、批判的な読み方は当然である。聖書は「神の言葉」であるからといって、一点一画を文字通りに受けとめるという考えは取り得ない。ところが、歴史的、批判的な読み方が学者によって様々に分かれているから迷ってしまう。納得し、信頼できると思われる学者の説を受け入れている。私は歴史的、批判的に読み、聖書をバラバラに分解しても、その先になお、私を支え、生かしてくれる確かな「神の言葉」があると信じ、それを模索してきた。

この聖書の読み方に関し、先生は「私の聖書研究」で次のように述べておられる。対象(聖書)に対し、ポジティヴに、理性的に、ロゴスで関わる学問と(見えざる神)信仰は対照的で両立しないと思われている。先生はまず「対象に関する知識をいくら増やしても、対象に関するデータを積み重ねるにとどまって、対象がわかる、あるいは対象を理解することにならない場合が多い」と学問の限界を語っておられる。そして「知ること、つまり知識は、わかること、つまり理解にまでたかめられるのでなければならないだろうと考えられます」。その「理解の条件は、相手との出会いを媒介とする。相手によって引き起こされる感動、あるいは相手に対する信頼です。共感と信頼なしに相手を理解することはできないでしょう」。「信仰」と訳されているギリシャ語はピスティスであるが、これは、元来相手に対する「信頼」を意味している。そこから「逆説的に言いますと、相手に捕えられている、相手を信頼しているからこそ、なおかつ相手を知ろうとする、あるいは相手を捕えようとする。相手をより深くかかわろうとする、より深く理解しようとする」ようになると言われる。この知識と信仰(信頼)の相互関連において、聖書を読むということであろう。

私の中で整理し切れないでいたことが解きほぐされた思いがした。