牧師室より

Nさんが団地から飛んで、若い命を終えられた。7日(月)の午後、お父さんから「Nは教会に行っていないでしょうか」という電話があった。ふらっと外出したらしい。その夜、港南警察署に安置されているとの電話を受け、警察署に急いだ。眠るように召されていた。Nさんは日曜日と木曜日だけでなく、時々教会に来られた。外出した時、どうして教会に来てくれなかったのか、最後の時、どうして心を開いてもらえなかったのかと残念でならない。ご遺体を教会にお連れする時、涙が止まらなかった。

Nさんはある日、突然訪ねてこられた。職場での辛かった話を聞いて、精神的にバランスを壊していると思った。このような場合、家族の理解と協力が大切だと思うので、私はご家族と一緒に来るように話した。Nさんは素直にお母さんを連れて二人で来られた。私は、信仰によって病気が治ることはないと思います、軽度の病気と思えるので医者の指示に従い投薬を受けながら、教会生活をするように勧めた。二人はそれ以後、熱心に通われた。Nさんはクリスチャンになりたいと願っておられた。お母さんは仏教の信仰を持っておられたが、それがキリスト教信仰の理解を早めた。昨年のイースターに二人揃って喜んで洗礼を受けられた。

Nさんは大学生時代に友だちから信仰を勧められたようだ。洗礼を受けた時「若木」に「同級生が言うとおり、愛と希望と信仰は大切だと思いました」と書いておられる。音楽と絵画と読書が好きであった。純真で正直で、要領よく振る舞うことのできない真っ直ぐな人であった。このような人が心を病むことが多い。今の時代の非情さを痛切に思う。

発作的な衝動に駆られたのだろうが、本当に可愛がり、回復のため心を砕いておられたご両親の悲しみと痛手はどれほどのものかと拝察する。

私も自分自身に対し深い挫折感に捕らわれている。しかし、神は苦しむ彼女を安らぎの天に招かれたのではないか。神のみ旨を謙虚に問いながら、彼女の生と死を記念していきたい。教会の方々も彼女を悼んで会葬に大勢来てくださった。