牧師室より

1995年に教会員でツアーを組みイスラエル旅行に行った。観光会社にパレスチナ人教会に行きたいと要望し、ベツレヘムのパレスチナ人居住区の教会を訪ねることができた。その地域は道路が狭く、信号機も不備で、大型バスから小型バスに乗り換えて行った。ガイドさんがイスラエル政府発行の写真つきガイド証をつけていると危険だからとポケットにしまい込んだ。

教会は地域センターの働きをしているルーテル派の教会であった。短い時間であったが、その教会のミトリ・ラヘブ牧師の話を聞くことができた。「私たちは二千年来、ここに住むクリスチャンである」と誇らしげに語り、また「イエスの遺跡を見るだけでなく、現実を見てほしい」と言われたことが印象に残った。

ラヘブ牧師は、私たちが訪ねた年に「I am a Palestinian Christian」という本を出している。加筆、修正されたものを、昨年の12月、山森みか氏が同名の「私はパレスチナ人クリスチャン」を翻訳、出版している。

あらゆる面で量的に少数者であるパレスチナ人クリスチャンは苦難に満ち、抑圧された弱い立場にある。

一般的には、イスラエル人はユダヤ教、パレスチナ人はイスラム教と見られがちだが、両民族はユダヤ教、キリスト教、イスラム教がモザイク状に複雑に絡み合っている。

ラヘブ牧師は「神の憐れみには本当に限りがなく、だれをも包含し、そこから排除されるものはないという事実を、いつになったら把握できるのだろうか」と悩みながら、二つの民族と三つの宗教の狭間で仲介者として和解の道を模索し続けている。マルチン・ルサー・キング牧師の「私には夢がある」という言葉から「私には、壁で分けられない二つの民という夢がある」と語り、パレスチナにおける両民族の共生を目指して神学する、誠実さと忍耐に敬服した。

私は下記の言葉に深く感動した。「正しくない方法で理解された宗教は、『世界に神の力が必要だ』という方向に人間を向けるが、一方で真の信仰は人を『神の無力と苦しみ、すなわち苦しむ神のみが救い得る』という方向へと向ける。ゆえに文脈を踏まえた神学は、十字架の神学でしかあり得ない」。「文脈を踏まえた神学」とは熱狂的な原理主義でも安易に妥協する世俗主義でもなく、神と人との肯定的関係を生み出し、個人と他の人との、また環境との適切な関係基盤を形成する神学であるという。抑圧されている現場から「解放の神学」そのものを展開している。