◇牧師室より◇

 「神は悪の問題に答えられるか 神義論をめぐる五つの答え」は読み応えのある本であった。「神義論」とは神が全能で善をもって支配しているのなら、なぜこの世界に悪が存在するのか、神の義に反するではないかという議論である。理由なく悲惨な苦悩を背負ったヨブ記のテーマであり、全ての人の問であろう。20世紀にはユダヤ人の大量虐殺があり、今も集団殺戮は続いている。私自身も受け入れ難い苦しみを負い、また、多くの方から「なぜ、私にこのようなことがあるのか」と度々聞いた。英米の五人の神学者・哲学者がこの神義論を論じ、白熱した議論を交わしている。本の紹介はできないが、考えさせられたことを書きたい。

 「悪」は自由意志をもって造られたアダムとエバが、その自由を用いて神に禁じられた木の実を食べたことに起因すると原罪説は説く。また、苦しみは神からの試練・鍛錬で、これに耐えていくところに「義という平和に満ちた実を結ばせる」と聖書はいう。なるほどと思わされるが、苦難のドン底にある時、承服できるだろうか。

 納得できない苦難の中にある時、神に徹底的に「神さま、なぜ私をこんなに苦しめるのですか。受け入れられません」と不平・不満を言っていいのではないか。神に文句を言いながら、しかし、この神に従う。私はこれしかないし、これが許されると思っている。主イエスは全く理不尽な十字架につけられた時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいる。これは神への率直な不平・不満である。しかし、神に叫びながら、神と結び合っている。

 キリスト教は主イエスの十字架によって罪が贖われていることを信じる信仰である。罪の贖いとは人間の思いを越えて神と「既に」和解(神のものと)させられている救いのリアリティーである。しかし、その贖いは「未だ」完成されていない。完成は終末時に与えられる。「既に」と「未だ」の中間時を生きているのが私たちの生である。「既に」贖われているから、神に何でも言える。そして「未だ」ではあるが、完成する終末を望んでいる。ここに、神に不満を言いながらも、この方を望み、従う信仰が許される根拠がある。