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牧師室より◇キリスト教の月刊誌「福音と世界」の
9月号は「死刑廃止とキリスト教」を特集している。国連は1989年に死刑廃止を決議している。現在、廃止国は111ヶ国、存置している国は84ヶ国だそうである。国際世論は廃止に向かって確実に動いている。旧約聖書には「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」とある。この律法はイスラエル人にのみ適応される。異教徒を殺害しても罰せられず、むしろ、殺害を命じられている。旧約の律法は主イエスの福音から見直されるべきである。
死刑は戦争と同じく、国家による合法を装った殺人である。冤罪による死刑は今も絶えない。仮に非道な殺人者であっても、その人の命の抹殺は、どんな人にも権力にも与えられてはいないと思う。
死刑存置論は犯した罪を自分の命で償えということである。原田正治氏は弟さんを保険金目当てに交通事故を装って殺された。加害者は死刑判決を受けた。刑務所にいる彼から何通もの手紙がきたが、見ることなく破り捨てていた。ある時ふと、手紙を読んだ。会ってみたいと思い、しばしば会うようになった。原田氏は会う中で、生きて罪を償ってもらいたいと法務大臣に助命嘆願書を出した。しかし、処刑された。
死刑制度が犯罪の抑止になるという。しかし、歯止めになる証拠はない。廃止国で犯罪の増加は見られない。死刑囚も犯罪の時、死刑の恐怖を考えたことはないと証言している。
また、「被害者家族の悲しみと苦しみを理解していない」という。そうかも知れない。しかし逆に、加害者、その家族になることも想像していい。米国では、被害者家族に死刑執行の現場をテレビモニターで見せる州もある。これは報復である。一方、被害と加害の家族同士が出会い、話し合う運動を起こしている。相互理解が深まり、ここからも死刑廃止の声が上がっている。
死刑囚は家族と弁護士以外に会うことはできない。全く孤独な独房生活を強いられている。人は他者との関わりの中で自己認識ができる。独房に閉ざすのではなく、人との出会いや社会との接点を広げ、罪を認めて立ち直る機会を与えていく。犯罪者の心の軌跡を受け止め合うことが犯罪を減らしていくのではないか。無期懲役刑は出獄が約束されている。凶悪犯罪者には終身刑で、生涯をかけて罪を償わせる方法があろう。声高に「十字架につけよ」と叫ぶのは、主イエスの時だけで十分である。