適切な厚さに摺り上げた薄片をそのまま顕微鏡で見ても,ザラついたり霞んだようで,細かい岩石組織や詳しい光学的な性質はよくわかりません.薄片の表面には,最後に使った研磨材の粗さに応じた細かな凹凸があります.岩石(屈折率 n=1.5~1.7)と空気(n≒1.0)では屈折率が大きく異なるために,この凹凸によって光が複雑に屈折・散乱してしまうのです.鉱物の屈折率に近い封入剤を表面に塗り,平滑なカバーグラスで覆うことで,薄片表面の凹凸による屈折・散乱を抑えることで,はじめてクリアに見えるようになるのです.
カバーグラスをかける代わりに透明なマニキュアを塗る方法もあります.しかし,マニキュアの屈折率(n=1.4くらい)は鉱物の屈折率より小さいため,塗ってもカバーグラスほどきれいには見えません.将来,分析のために鏡面研磨するかもしれないからカバーグラスをかけずマニキュアを塗る,という人も多いですが,カバーグラスも簡単にはがせるため,あえてマニキュアにするメリットはないと思います.
従来,カバーグラス貼りに用いる封入剤には,カナダバルサム(以下,バルサム)を用いてきました.バルサムは,北米に生えるモミの木の一種(バルサムモミ)の松脂を有機溶剤(キシレン)で溶いたものだそうで,屈折率はn=1.52とされています.かつては500gを1瓶6~7千円で買えたのですが,近年価格が高騰し,2025年末時点で500gあたり6万円以上と10倍にもなり,入手も困難になりました.そこで,薄片室の在庫が尽きる前に代替の封入剤に切り替え,どうしてもバルサムでないといけない用途のために在庫を残しておくことにしました.
当面の代替品は,松浪硝子から販売されている「MGK-S」という合成封入剤とします.ポリスチレンという合成樹脂をキシレンで溶いたものらしいですが,従来のバルサムと似た方法でカバーグラスを貼ることができます.また,一切加熱しないで封入することも可能であるため,粘土鉱物を多く含む試料や高温に弱い樹脂で補強した薄片にダメージを与えることなくカバーグラスを貼ることができます.
※封入剤から蒸発する溶剤(キシレン)の蒸気は有害です.換気扇を回したり窓を開けるなど,必ず換気しながら作業してください.
薄片と,屈折率が既知の樹脂(貼付樹脂または封入剤)の接触部に現れるベッケ線を用いて,鉱物の屈折率を推定し,識別や同定に役立てることができます(黒田・諏訪, 1983, 「偏光顕微鏡と岩石鉱物」の20頁を参照).バルサム(n = 1.52)やペトロポキシ(n = 1.54)は,カリ長石や沸石を石英や斜長石から識別するのに役立ちます.しかし合成封入剤「MGK-S」の屈折率はそれらより高い(恐らくn = 1.56~1.57: *下注参照)ために,同様の判別法の基準としては使えないことに注意が必要です.
ペトロポキシで貼り付けてから削った薄片に封入剤でカバーグラスを貼り付ける通常の制作方法では,鉱物は封入剤ではなくペトロポキシと隣接します.そのため,封入剤が変わっても上記の識別法は有効であり,気にする必要はありません.一方,完成した薄片の外側にはみ出したペトロポキシを削り落としてから封入する場合には,薄片の外縁で鉱物が封入剤と隣接することになるため,上記の識別法は適用できません.特段の理由がない限り,はみ出したペトロポキシを削り落とさないで残しておくことを推奨します.
* 合成封入剤「MGK-S」の屈折率は,瓶のラベルの表記ではn = 1.55, 松浪硝子のHPでは1.545とされており,これらの値は石英の屈折率(nω=1.544, nε=1.553)とほぼ同等です.封入直後には,封入剤の屈折率は石英の最小屈折率 nω と最大屈折率 nε の間にあることが確認できるため,ほぼ公称値どおりと思われます.しかし溶剤が蒸発し固化が進むにしたがって,封入剤の屈折率は上昇し,石英の最大屈折率を超えます.それでも白雲母の最小屈折率(nα=1.552~1.576)は超えないので,おおよそn = 1.56~1.57のあたりだろうと推定しました.なお,鉱物の屈折率はWeb版Handbook of Mineralogyを参照しました.