なぜ、エマ・スミスは、ソルトレークについて行かなかったのか
ジョセフ・スミスが殉教したあと、イリノイ州ノーブーでの迫害が強くなってきた。
教会員たちは、さらに西のソルトレークへの移住を始めた。
しかし、ジョセフ・スミスの妻のエマ・スミスは、ソルトレークについて行かなかった。
それは、なぜなのか。
以下の資料から、調べてみた。
・教会歴史のテーマ エマ・ヘイル・スミス
・「聖徒たち」1巻45-46章
・「聖徒たち」第2巻1,20,24章
簡単にまとめると、以下の点が原因となったようだ。
- ジョセフ・スミスの遺産の配分についての意見の対立
ジョセフ・スミスは自身に関する資産について、
教会のものと家族のものとの区別を明確にせずに亡くなった。
十二使徒会の会長ブリガム・ヤングとエマとの間で遺産の配分について意見が対立した。
そういうことがあったため、ブリガム・ヤングについて行くことを嫌がった。
- 義母の介護
夫の母がエマの介護を必要としていたので、過酷なソルトレークへの旅に、
義母を連れて行くことができずにノーブーに留まることしかできなかった。
「教会歴史のテーマ」からの抜粋
法的に有効な遺言状がなかったため、
教会もエマの家族も、経済的に不安定な状況に陥りました。
スミス家と教会の双方にどの程度ジョセフ・スミス名義の資産に対する権利があるか、
またその負債をどの程度負う義務があるかということを巡って、
十二使徒定員会会長のブリガム・ヤングとエマとの間に意見の相違が生じました。
1846年、多くの聖徒たちがグレートベースンへ向けて出発する中、
エマはノーブーに残り、マンションハウスおよび子供たちの扶養に
充てられる可能な限りの物についてその所有権を主張したのでした。
1847年12月23日、エマはモルモン教徒ではないノーブーの住民、
ルイス・C・ビダモンと結婚します。
そして1860年には、復元末日聖徒イエス・キリスト教会
(後に「コミュニティ・オブ・クライスト」に名称を変更)に加入しました。
1860年の復元教会創設時に、エマの息子ジョセフ・スミス3世がその教会の大管長に、
またその弟のアレクサンダー・ヘイル・スミスが大管長の顧問になりました。
エマはブリガム・ヤングとも、ユタにいる末日聖徒たちとも疎遠になっていましたが、
ジョセフ・スミスの預言者としての役割と、
モルモン書にある神聖な真理に対する信仰を持ち続けていました。
後年のインタビューでこう証しています。
「わたしはモルモン書が正真正銘、神の言葉であると信じています。
これについてはみじんの疑いもありません。」
エマ・ヘイル・スミス・ビッドマンは、1879年4月30日にノーブーで逝去し、
ジョセフの隣りに埋葬されました。
「聖徒たち」からの抜粋
ノーブーでは、夫の死を嘆き悲しみながらも、
子供たちや義母を自分一人で養っていくことについてエマが心配し始めます。
ジョセフは、自分の家族の資産を教会の所有物から分けようと、
広範囲にわたる法的措置を試みていましたが、
依然としてかなりの負債が残されており、遺言もありませんでした。
教会が早急に教会の資産管理者としてジョセフに取って代わる管財人を指名しないかぎり、
自分たち家族は困窮状態から抜け出せないのではないか、とエマは恐れました。
エマ・スミスもまた、依然として家族の福利に心をくだいており、
使徒たちを全面的に支持することを拒みます。
エマは、ジョセフの遺産を整理するために、
十二使徒会が指名した管財人と協力して事に当たりますが、
ジョセフの文書類やそのほかの資産について口論となり、心を痛めます。
使徒たちが引き続き多妻結婚について教え、
個人的にそうした結婚を実践していることにもまた、エマは悩まされていたのです。
エミリーは川を渡る前、預言者の死の5か月後に産まれたジョセフとエマの幼い息子、
デビッド・ハイラムに会うためにノーブーマンションを訪れました。
かつてエマとエミリーの間にあった悪感情はなくなっており、
エマはエミリーを家に招き入れ、優しく応対してくれました。
エマと子供たちは、西部に行くつもりはありませんでした。
エマにとって多妻結婚は受け入れがたく、また財産に関する争いも継続中であったため、
エマと教会、および十二使徒会との関係はこじれたままだったのです。
エマは今でもモルモン書を信じていましたし、
預言者としての夫の召しについても力強い証を持ち続けていました。
それでも、エマは使徒たちに従って行くよりも、
スミス家の人々とともにノーブーにとどまることを選んだのでした。
自分が行くことにすれば目的地に着けるよう聖徒たちが助けてくれるであろうことが、
ルーシーには分かっていました。
啓示は一つの地に集合するよう聖徒たちに命じていましたし、
十二使徒は断固として主の御心を行おうとしていました。
ところが年老い、自分の命がそう長くはないことを悟っていたルーシーは、
自分が死んだらノーブーの地、
すなわちジョセフとハイラム、夫のジョセフ・スミス・シニア、
その他の家族が眠る近くに埋葬されることを望んでいました。
しかも、生存している親族のほとんどはノーブーに定住していたのです。
ただ一人残った息子ウィリアムは十二使徒定員会の会員でしたが、
定員会による指導を認めず、西部に行くことを拒否していました。
3人の娘、ソフロニアとキャサリンとルーシーも、この地に残ると言っています。
義理の娘、すなわち亡き預言者の妻エマもそうでした。
ルーシーはこのほかにも自分の家族のことや、ミズーリとイリノイで受けた迫害、
その先聖徒たちを待ち受けている試練について話しました。
「主がブリガム・ヤングとすべての教会指導者を祝福してくださるようにと祈ります。
次の世に行ったらすべての皆さんにお会いしたいと思っています。」
ジョンとロビーナはノーブーに暮らすスミス家の親戚を訪ねました。
親戚の中には、おばのエマとその子供たちもいます。
エマはノーブーで平穏な生活を送っていました。
彼女はいまだノーブーマンションに住み、
かつての教会の資産を所有していました。
その資産とは、1844年、亡くなる前にジョセフがエマへ譲渡したものです。
ジョセフはエマを信用してその土地を譲渡しましたが、
ジョセフの債権者の一部は後に、ジョセフが不正を働いたと確信して、
この資産を売却のうえ返金するよう求めました。
彼らがその告発を証明することはできませんでした。
問題は1852年に落ち着きます。
連邦判事は、教会の管財人としてジョセフが所有していた10エーカー(4ヘクタール)を
超える土地のすべてが、借金を返済する目的で売却して差し支えないものであるという
判決を下したのです。
夫ジョセフを亡くした妻として、エマは売却による収益の6分の1を受け取りました。
エマはそのお金で土地の一部を買い戻し、家族を養ったのでした。
ジョンとロビーナは親戚の無事を確認しましたが、
彼らは宗教に関しては意見を異にしていました。
いとこのジュリアはカトリック教徒と結婚し、夫の宗教に改宗していました。
ジョセフとエマの4人の息子たちは自らを末日聖徒だと認めながらも、
父親がノーブーで教えた幾つかの原則、とりわけ多妻結婚を拒絶していたのです。
これは、ジョンにとって何ら驚くことではありませんでした。
エマは夫が多妻結婚についてひそかに教え、実践していたことを知っていましたが、
息子のジョセフ・スミス三世は多妻結婚を、預言者ジョセフの死後に
ブリガム・ヤングが聖徒たちに紹介した原則だと信じていました。
1848年、ジョンの家族がノーブーから立ち退こうというとき、
ジョンはジョセフ三世に、一緒に西部へ向かい、
父親の業を引き継いでいくよう説得を試みました。
ところがジョセフ三世はきっぱりと断ります。
このように答えました。
「このことで、霊のうえでの妻や、父の死後に設けられた
そのほかの制度を支持しなければならないのであれば、
わたしはほぼ確実にあなたの宿敵にならざるを得ないでしょう。」
何年にもわたり、ジョセフ三世は教会を導くことに対して関心をほとんど示しませんでした。
ところが1860年4月6日、ジョンとロビーナの訪問の後、
ジョセフ三世とエマは聖徒たちの「新たな組織」が開催する大会に出席します。
この組織の聖徒たちは、ブリガム・ヤングによる指導を認めず、
合衆国中西部に留まっていました。
集会の間、ジョセフ三世はこの新たな組織の指導者の職を引き受け、
多妻結婚を非難することでユタにいる聖徒たちから遠ざかりました。
1869年、季節が春から夏に移り変わろうとしているころ、
ジョセフ・F は新たな問題に立ち向かう準備をしていました。
いとこのアレクサンダー・スミスとデビッド・スミスが準州へ来ることになっていたのです。
預言者ジョセフ・スミスの息子であるこの二人はイリノイに住んでおり、
復元末日聖徒イエス・キリスト教会に所属していました。
アレクサンダーとデビッドは、兄のジョセフ・スミス三世を預言者として、
父の担っていた業の正当な後継者として支持していました。
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