わたしたちの内にある神
わたしが教会で初等教会の教師をしていたときのことです。
生徒は小学6年生の男の子一人だけでした。
彼は頭の良い子だったので、レッスンが難しいのです。
レッスンを始めると、彼は、それはもう知っているのでやらなくて良いと言うのです。
ムカッと来て、本当に知っているか質問をしてみると正解が返ってきます。
それで、レッスンの時間は彼との雑談に変わってしまいます。
(これは後で分かったことなのですが、
わたしの前にその子を教えていた教師が解任されるときに、
教師用テキストを、その子がほしがったので、あげたようです。
その子はそれを全部読んでいたのです。)
彼が初等教会を卒業するとき、
「先生は全然レッスンをしなかったね。どうして。」と尋ねてきて、
もう一度ムカッと来た記憶があります。
彼とのあるレッスンの時の話しです。伝道についてでした。
黒板に世界の人口と世界の教会員数を書いて、
福音を知っている人と知らない人の数の違いを知ろうというものでした。
当時は世界人口57億人、教会員900万人でしたので、
福音を知っている人は633分の1です。
まだ633人の内632人が知らないので伝道をする必要があります。
このような内容でした。
このとき、彼は次のような難しい質問をしてきました。
「この世には、福音を知らない人があまりにも多すぎるし、
今までも、福音を知らずに死んでいった人が多すぎる。
モルモン書には、現世は人が神にお会いする用意をする時期である(アルマ34:32)
とあるのに、神様すら知らない人もいる。
現世での目的が福音に従った生活をすることであるならば、
ほとんどの人がその目的を知らされなかったのはなぜか。」
確かに、完全な福音が存在していた時期と地域はごく限られていて、
ほとんどの人は福音とは無縁でした。
この世に来てすぐ亡くなる人もいます。
わたしはこれに答えることができませんでした。
それ以来このことがずっと気にかかっていました。
ある日、わたしは聖書の次の所を読んで、その答えを得ました。
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)
これはキリストの贖いにより、全人類の救いがもたらされたことを表しています。
しかし、わたしはこれにもっと深い意味があると気づきました。
わたしたちは神様のもとを離れ、この地上に来るとき霊の死を経験します。
(詳しくは「先のものは後になり、後のものは先になる」を参照)
つまり、神様と無縁の状態を経験します。
神様と一緒に暮らしていた記憶すら失ってしまいます。
この現世では何もかも失うと言う経験をすること自体に意味があるのです。
わたしが気づいたのは、「なぜほとんどの人は福音とは無縁だったのか」というのではなく、
「人は神様を知らないという経験をするためのこの地上に来た」ということです。
「我々は霊的な経験をしている人間ではない。人間的な経験をしている霊なのである。」
(ティルハード・D・チャーディン)
わたしたちは霊の死を経験することによって、わたしたちの外に神を見るのではなく、
わたしたちの内に神を見るようになります。
わたしたちの内にいる神とは、わたしたちの神としての性質です。
これはわたしたちが神のようになるための種みたいなものです。
この種を信仰の力によって育てると、永遠の命の木になります。
やがては、わたしたちは神様のようになり、自分の宇宙を造り、
多くの霊の子供たちを持つことができるようになります。
かつて、福音を聞くことなくこの世を去った多くの人々が、その内なる神を見出し、
それに従った生活をしてきました。
彼らの知識は完全ではなかったものの、そのわずかな知識に対して忠実であったために、
神様から祝福を受けます。
彼らは霊界で福音を聞き、喜びに満たされていることと思います。
やがては、すべての人が、身代わりの儀式によって、
もれなく福音の儀式を受ける機会に預かれるのです。
わたしにはまだはっきりとは分かりませんが、生まれてもすぐ亡くなる子供たちにも、
この現世は意味があったと思います。
わたしには9歳年下の弟がいますが、実はその間に4歳年下の妹がいました。
母が妹を妊娠していたとき、母が腎臓病にかかってしまいました。
このままだと母が危ないと言うことで、人工早産させることになりました。
今の技術なら生かせることができるのですが、当時の設備ではそれができず、
わずか2週間で妹はこの世を去ってしまいました。
彼女は前世でこの世に来ることになったとき、
現世ではあまり生きられないと知っていたに違いありません。
前世ではどの家族に加わるかの選択ができるかどうかは知りません。
でも、嫌がるのに神様が無理やりこのようなことをするとは思えません。
彼女は自由意志によりあまり生きられないのを承知で、
わたしたちの家族のもとに生まれてきたと思います。
彼女の犠牲がなければわたしの母は死んでいました。
彼女の示した愛はキリストが示した愛と同じものです。
ただこの愛を実践するためだけに、彼女はこの現世を経験したのかも知れません。
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
(ヨハネ15:13)
前世において、優れた人々にとっては、この現世は単なる通過儀礼なのかもしれません。
そのために、少ししか、この世にいなかったのでしょう。
それぞれの人によって、現世で果たすことは違っているのです。
この現世の目的が、福音を聞いて儀式を受けることよりも、
経験をすることにあるのならば、
なぜ神様は、わたしたちに福音を宣べ伝えることを望まれるのでしょうか。
福音を聞き儀式を受ける場として、霊界を設定すればよいのではないでしょうか。
『モルモン書』の「ヤコブ書」5章を読むと、
この現世で福音を宣べ伝えなければならないことの意味が分かってきます。
これは、オリーブの木になる実を、この世の人々の行いにたとえています。
そして、焼き払い(主の再臨)の前に果樹園の主人(キリスト)はこう言います。
そして果樹園の主人は、その実が良く、また自分の果樹園がもはや悪い状態にないことを知ると、
僕たちを呼び集めて、彼らに言った。
「この最後の時に、わたしたちは果樹園に養いを与えてきた。
あなたがたの見るとおり、わたしは自分の望むままに行い、自然の実を保存した。
その実は最初の時と同じように良い実である。あなたがたは幸いである。
あなたがたは、わたしの果樹園でわたしと一緒に熱心に働き、わたしの命じたことを守り、
わたしのために再び自然の実が得られるようにしてくれたからである。
わたしの果樹園はもはや悪くない。悪い枝は捨ててしまった。
だから、あなたがたはわたしの果樹園の実のことで、わたしと一緒に喜びを得るであろう。
さて見よ、わたしはしばらくの間、もうすぐやって来る実のとれない時節に備えて、
わたし自身のために果樹園の実を蓄えよう。
わたしはこれを最後として、果樹園に養いを与えてきた。
刈り込み、周りを掘り、肥料をやってきた。
わたしはすでに言ったように、しばらくの間自分自身のために実を蓄えることにしよう。
そして、将来再びわたしの果樹園に悪い実が生じる時が来れば、
わたしはそのときに良い実と悪い実を集めさせ、
良い実はわたし自身のために保存し、悪い実はそれ相応の場所に捨ててしまおう。
その後、実を結べない時節、すなわち終わりが来る。
そうすれば、わたしは自分の果樹園を火で焼かせよう。」
(ヤコブ5:75−77)
この物語には、3種類の人を象徴するものが出てきます。
悪い人を象徴する悪い実、良い人を象徴する良い実、そして、僕たち。
良い実は僕たちによって、刈り取られ保存されます。
そして、悪い実は焼かれてしまいます。
このたとえを引用した後でヤコブは次のように言っています。
「主の果樹園で熱心に働いてきた人々は、何と幸いであろうか。
また、自分の定められた場所に投げ込まれる者たちは、何と災いであろう。
世界は火で焼かれるであろう。」
(ヤコブ6:3)
ここから、分かるのは、主の再臨が近い現代においては、良い実と悪い実だけでなく、
僕も必要とされていると言うことです。
良い実を管理し、集める人が必要なのです。
この教会に人々を呼び集める行為、つまり伝道は、果樹園の主人が僕たちを呼び集める行為なのです。
ヤコブは、幸いなのは僕たちで、災いなのは火で焼かれる悪い実であると言っています。
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