アンネの日記

アンネの日記(ユダヤ人の少女アンネ・フランク(1929〜1945)の、ナチスの迫害を逃れて、
家族と共にアムステルダムに隠れ住んだ1942年から2年間の生活記録。)より

1944年7月6日、木曜日

ペーターが最近、そのうち犯罪者になるかもしれないとか、
ギャンブルにふけるようになるかもしれないとか言いますが、
それを聞くたびに、不安に胸を締め付けられます。
むろん冗談のつもりでしょうが、彼は自分の性格の弱さを恐れているような気がします。
ペーターだけでなく、マルゴットからも、たびたびこういう台詞を聞かされます。
―「そうよ、もしあんたぐらい強い性格で、勇気があったら……もしどんなときでも、
自分の望むことをつらぬきとおせたら……もしあんたほどに不屈のエネルギーがあったら……!」

わたしは思うのですが、けっして他人に影響されないというのは、
ほんとうにいい性質なのでしょうか。
ほとんどいつでも自分の良心をつらぬきとおすというのは、
ほんとうにいいことなのでしょうか。

正直に言うと、「自分は弱い性格だ」と言いながら、
それでいて平気でいられるというのは、わたしには考えられません。
それがわかってるんなら、なぜ闘おうとしないのでしょう。
なぜその性格を鍛えなおそうとしないのでしょう。
答えはこうです。―「そのままでいるほうが、ずっと楽だからさ!」
これにはいささか失望しました。
楽だから、ですって?ということは、怠惰な、虚偽に満ちた生活のほうが、
楽な生きかただというのでしょうか。
まさか、そんなことがあるはずはありません。
そうであってはなりません。
そうでなくても人間は、たやすく誘惑されがちなものです。
―安易さに……そして金銭にも。

長いことかかって、ペーターにどう答えたらいちばんいいかを思案してみました。
彼に自信を持たせるにはどうしたらいいか、そしてとりわけ、
自分を向上させようという意欲を持たせるには、どうしたらいいか。
でも、わたしの考えかたが正しいかどうかは、自分でもよくわかりません。

これまでたびたび考えてきたのは、だれかの完全な信頼を得られたら、
どんなにすばらしいだろうということでした。
でもいま、いちおうそこまで達したいまは、ほかの人が考えていることを察し、
それにたいする正しい答えを見つけることは、とてもむずかしいのがわかりました。
とくに、”安易”とか”金銭”とかいう考えが、
わたしにはまったくなじみのないものですから、なおさらのことです。
ペーターはいくらかわたしに頼りすぎるようになっていますが、
どんな事情があっても、こういうことはぜったいにあってはならないことです、
ペーターのようなタイプは、自分の足で立つことをむずかしいと考えがちですが、
それよりももっとむずかしいのは、自覚を持った、生きた人間として自立することです。
なぜなら、人に頼っていると、いろんな問題にぶつかりながら正しい道を誤らず、
しかもなおそのなかで、志操堅固に生き抜くことが、二倍も困難になるからです。
わたしはいま迷っています。
ここ数日、考えあぐねて、その恐ろしい”安易”という言葉に対抗できるだけの確固たる主張、
それを徹底的に論破できるなにかを探しもとめています。

どのように説けば、安易で、魅力的に見えるものが、
彼を泥沼にひきずりこむだけだということをわからせてやれるでしょう。
いったんその深みにはまったら、慰めも得られず、友達や、美しいものを見いだすこともできず、
そこから抜けだすことはほとんど不可能になるのです。

わたしたちはみんな生きています。
でも、なぜ生きているのか、なんのために生きているのか、それを知りません。
だれもが幸福になりたいという目的をもって生きています。
生きかたはそれぞれちがっても、目的はみんなおなじなのです。
わたしたち三人は、いい環境で育てられてきました。
学ぶ機会を与えられ、なにかを成し遂げる可能性を与えられ、
大きな幸福を期待するだけの理由があります。
とはいえ……それは自分たちの力でかちとらねばなりません。
それはけっしてたやすいことではないのです。
もし幸福をかちとろうと思えば、勤勉に働き、正しい行いをし、
怠けたり、ギャンブルにふけったりしてはなりません。
怠惰は一見魅力的に見えますが、働くことこそ満足を与えてくれるものなのです。

働くことの嫌いな人の気持ち、それがわたしには理解できません。
といっても、ペーターがそうだというのではなく、
ただ、いまだにはっきりした人生の目標が定まらず、
自分はばかで劣等児だから、なにも成し遂げられないと思っているだけなのです。
気の毒に、他人をしあわせにしてあげるというのが、
どんなに気持ちのいいものか経験したこともなく、
わたしとしても、それを教えてあげることはできません。
信仰も持たず、イエス・キリストをばかにし、
神様の名をひきあいに出して悪態をつきます。
わたしだって、けっして正当派の信仰を持っているわけじゃありませんが、
それでも、彼が寂しく、冷笑的で、貧しい心しか持たないのを見ると、
そのたびに胸を刺されるような気持ちがします。

信仰を持つ人びとは喜ぶべきです。
みんながみんな、崇高なものを信じられる天性を与えられているわけではないのですから。
死後の罰を恐れる必要もありません。
煉獄とか地獄、天国といったものは、多くの人にとって信じがたいものですが、
それでも、どんな信仰でもかまいません、
信仰を持つならば、その人は正しい道を踏みあやまることはないでしょう。
それは神を恐れることではなく、自分の名誉と良心を保つことです。
もしも、毎晩眠りにつく前に、その日一日の出来事を思い起こし、
なにが良いことでなにが悪いことか、きちんと反省してみるならば、
人はどれだけ崇高に、りっぱに生きられることでしょう。
そうすれば、知らずしらずのうちに、つぎの朝から、
自分を向上させようと努めるようになるはずです。
その努力のなかで、多くのものが得られることは言うまでもありません。
これはだれにでも実行できますし、費用もかからず、
しかも非常にためになります。
まだこれを知らない人は、ぜひともこのことを経験によって学び、発見してほしいものです。
―「澄みきった良心は人を強くする!」

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