ドン・ビンチェンツォ・デ・フランチェスカの証

あらすじ

イタリア人牧師であるビンチェンツォ・ディ・フランチェスカが
ニューヨークの町を自分の教会に向かって歩いていたときのことである。
灰でいっぱいになったたるの中に、
表紙の取れた1冊の本が置き去りにされているのが目に留まった。
手に取って開いてみると、そこにはニーファイ、モーサヤ、アルマ、モロナイなどといった、
見慣れない名前が書かれていた。
本のタイトルも起源も分からないまま、読んでみたいという気持ちに駆られ、
書いてあることが真実かどうか、祈って尋ねることにした。
祈った後にフランチェスカはこう語っている。
「何かただならぬ価値を持つものを見つけたようでうれしくてたまらず、
心が安らぐのを感じた。
そして、言葉で表現できないような喜びをかみしめた。」
フランチェスカはその本の教えを自分の教会の信者に伝え始めた。
そのためフランチェスカは教会の指導者から懲戒処分を受け、
本の焼却まで命じられたが、従わなかった。
後にフランチェスカはイタリアに戻り、1930年に、
その本が末日聖徒イエス・キリスト教会の発行したものであることを知る。
ユタの教会にあてて書いた手紙はグラント大管長のもとに届けられた。
グラント大管長はイタリア語のモルモン書を送り、
フランチェスカの名前をヨーロッパ伝道部の部長に伝えた。
当時は戦時中でもあり、なかなかバプテスマを受けることができなかったが、
ついに1951年1月18日、フランチェスカは教会員となった。
シシリー島初の教会員である。
それから5年後、スイス神殿でエンダウメントを受けた。

(「私たちの受け継ぎ」P97-98)

詳細

1910年2月のニューヨーク市のあの寒い朝の出来事を思うと、
私は神が常に私の存在を心にかけてくださっていたと思わざるを得ません。
その日の朝、イタリア人のための礼拝堂の管理人が、私に主任司祭からの言付けを持ってきたのです。
その言付けと言うのは、教区についての重要な話があるが、
司祭が病に伏しているため、私のほうから司祭宅に出向いて欲しいと言うものでした。

港に近い通りを歩いていくと、海からの強風にあおられ、
灰のいっぱい詰まった樽の上におかれた1冊の本がぱらぱらとめくれていました。
製本の様子から見ると宗教書のようです。
私は好奇心からその樽のほうに歩み寄り、本を拾い上げ、
樽に打ち付けて灰を振り落としました。
英語の本でしたが、表紙と扉のページは破れていました。

風の勢いでページがめくれ、わたしの眼にアルマ、モーサヤ、モルモン、
モロナイ、イザヤ、レーマンなどの言葉が続けざまに飛び込んできました。
イザヤ以外は聞いたことのない名前ばかりでした。
私はひとまず近くで買った新聞にその本を包むと、司祭の家に向かいました。

司祭にお見舞いの言葉をかけてから、私は彼に代わってすべきことのいくつか引き受けました。
家路につきながら、私はその本の中の聞きなれない人々が一体誰なのか思いを巡らしました。
この本に出ているイザヤとは誰なのか。
聖書に出てくるイザヤだろうか、それとも別のイザヤだろうか。

家に着いてから、私はその本に書かれていることをなんとしても知りたくて、
窓際に腰を下ろしました。
破れたページをめくり、イザヤの言葉を読んでいくうちに、
私はこの書物が将来起こるべきことについて書かれた宗教書であるという確信を得ました。
表紙と扉のページが破れているため、
この教義を教えている教会がどこなのかは分かりませんでしたが、
私は見証者たちの宣言を読んで
この書物が真実なものであるというはっきりした確信を持ったのです。

それから私は、近所の薬局で綿と洗浄液を買い求め、
1ページづつていねいに拭き取る作業を始めました。
そして数時間かけて残りのページを読み終えました。
その後、私は光と知識を受け、
この新たな啓示の出所を深く考えるようになりました。
私は幾度も読み返していくうちに、
この書物が贖い主の第五の福音書であるという確信を強めていきました。

その日の終わりに、私は自分の部屋に鍵をかけ、
その本を手に持ってひざまずき、モロナイ書の10章を読んでみました。
そして私は、その書物が神からのものなのか、真実の正しい書物か、
また伝道の際に四福音書と共にその中の教えを伝えてもよいものかを
御子イエス・キリストのみ名によって永遠の父なる神に祈ったのです。

海から吹いてくる風に私は自分の体が冷えていくのを感じました。
そして心臓の鼓動が早まり、この上ない貴重なものを見いだしたうれしさで心は慰められ、
筆舌に尽くし難い喜びに満たされました。
私は、神が私の祈りに答えてくださっとこと、またこの書物は私にとって、
またそのみ言葉を聞く人々にとって最も大いなる祝福となるという確信を得たのです。

その後も私は教区内での説教の仕事を続けていきましたが、
私の説教はその新しい書物からの教えを折り込んだものになっていました。
教区の会員たちは、私の教えに非常に興味を示し、
他の司祭の説教に満足しなくなっていきました。
彼らの説教の途中で席を外す会衆も、
私が説教壇に立つと最後まで残っているのを見て、
同僚達は私に腹を立てるようになりました。

彼らの嫌がらせが本格的になってきたのは、1910年のクリスマス・イブのころからです。
その晩の説教で、私は新しい書物からイエス・キリストの誕生と使命について話をしたのです。
すると説教を終えたとたん、数人の同僚が会衆の面前で、
私が話したこと全てに反駁してきたのです。
そして公然と非難したあげく、
懲戒処分をを求めて私を譴責委員会に引き渡したのでした。

委員会に出頭した私に、委員たちはまるで父親がするような忠告をしてきました。
それはトラブルの原因を作り、司祭たちの調和を乱したこの書物は悪魔の書であるから
すぐに焼き捨ててしまうようにというものでした。
それに対して私はこう答えました。
「神を恐れる者として、私にはその書物を焼くことはできません。
私はこの書物が真実なものかどうかを神に尋ねました。
わたしの祈りは答えられ、真実であるという確信を得ました。
今またこうして神を擁護しながら再び確信を深めています。」
私はそのときまた、この書物の出所が明らかになる日が必ず来ること、
そして私を譴責委員会に厳粛に抵抗させることとなったこの確信に
喜びを見いだす日が必ず来るという自信を得たのです。

1914年になって私は再び委員会の前に出ることになりました。
教会の役員は態度を和らげ、前回の審理での荒々しい言葉は私を愛するがためのものであり、
それによって私が傷ついたとしたらそれは遺憾であると言いました。
しかし従順が求められている限り、
その書物はどうしても焼いてもらわなければならないというのです。

わたしは神を怒らせることになると思い、
結局その書物を否定することも焼き捨てることもしませんでした。
私は役員に、この書物を有している教会が判明し
その教会の会員となれる日心待ちにしていることを伝えました。
「もういい、もういい。」荒々しい口調の役員の言葉に続いて、
委員会の決定が読み上げられました。
私は教会の司祭の職を失い、それまで得ていた一切の権利、特権を失うことになったのです。

1914年11月、私は故国のイタリアに帰り、
軍隊に召集されてフランスで戦うことになりました。
あるとき、私は中隊の仲間にアンモンの民のことを話して聞かせたことがありました。
同胞の血を流すことを拒み、そのような大罪を犯す代わりに武器を土に埋めることにした話です。
ところが従軍牧師が私のことを部隊指揮官に告げたらしく、
翌日私は彼のオフィスに護送されました。
部隊指揮官は私にどんな話をしたのか、またその書物をどこで手に入れたのかを尋ねました。
結局私は、その書物のことを二度と口にしないよう厳重に注意を受け、
罰として10日間パンと水だけの生活を強いられることになったのです。

終戦後再びニューヨークに戻った私は、前の教会の司祭をしている旧友に出会い、
教会の審議会にかけあってくれた彼のおかげで、
再び一会員として彼らに加わることになりました。
そして私は手始めに、ある司祭の同僚となってニュージーランドとオーストラリアに
伝道に行くことになりました。

オーストラリアで、私たちはイタリアから移民してきた人々に出会いました。
彼らから聖書の中の翻訳の間違いについて尋ねられたのですが、
彼らは同僚の返答に満足しませんでした。
質問が私に向けられらとき、私は再びアメリカ人にキリストが現れた話をしました。
そのような知識をどこで得たのか尋ねられて、
私は新たに見つけた書物のことを話したのです。
彼らにとってそれは意義深いことでしたが、
同僚の司祭にとっては聞き捨てならないものでした。
結局同僚が私のことを審議会に告げ口したために、
私は再び教会を追放されることになりました。

その後間もなくして、私はイタリアに戻りました。
そして1930年5月、フランス語の辞書で調べ物をしていたとき、
「モルモン」という見出しに目がとまりました。
それをよく読んでみると、モルモン教会は1830年に設立されたこと、
そしてこの教会は、プロボで大学(ユタ州のブリガム・ヤング大学)を
経営していることなどがわかりました。
私は、その書物についての詳しい情報と失われたページを求めて
早速大学の学長あてに手紙を書きました。
2週間後、私はその手紙が末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長に
転送されたという知らせを受けたのです。

1930年6月16日、ヒーバー・J・グラント大管長は私に手紙の返事と共に、
イタリア語のモルモン書を1冊送ってくれました。
そして、本部を英国のリバプールに置くヨーロッパ伝道部の
伝道部長ジョン・A・ウイッツォー長老にも私のことを知らせておくと伝えてきたのです。
数日後、ウイッツォー長老から来た手紙には、預言者ジョセフ・スミスのことや
金版、モルモン書が世に出ることについて書かれたパンフレットが同封されていました。
こうして私は、ようよく樽の上で見つけたあの灰まみれの書物の残りに出会うことができたのです。

1932年6月5日、ウイッツォー長老は私にバプテスマを施すつもりでナポリにやって来ました。
ところがシシリーですでに革命が起きていたため、
パレルモの警察は私が島を出ることを許可しなかったのです。
翌年、私はウイッツォー長老から、ジョセフ・スミスのパンフレットをイタリア語に翻訳する依頼を受け、
1000冊出版することになりました。
私は翻訳したものを、ヨセフ・ゴッセオという印刷屋に持っていきました。
ところがその印刷屋が訳文をカトリックの司教のところに持って行ったため、
司教はその翻訳を焼き捨てるよう命じました。
私はその印刷屋を訴えましたが、法廷で降りた判決は、印刷屋に対し、
原本を返すようにという命令だけでした。

1934年にウイッツォー長老が伝道部長を解任されたからは、
後任のジョセフ・F・メリル長老と連絡を取り合うようになりました。
そして彼は、「ミレニアルスター」の郵送を手配してくれました。
これは、第二次世界大戦のため予約が中断する1940年までずっと続きました。

1937年1月、メリル伝道部長の後任リチャード・R・ライマン長老から、
ヒュー・B・ブラウン長老と共に彼がローマに来るという手紙が舞い込みました。
それには、私がそこで彼らと落ち合い、バプテスマを受ける旨が書いてあったのですが、
戦争のため手紙の配達が遅れ、その指定の期日までに受け取ることができませんでした。

それ以来1949年まで、私は一切教会の情報に触れることはありませんでした。
しかし私は、引き続き忠実に教えに従い、時満ちる神権時代の福音を説き続けました。
私は幸い標準聖典を持っていましたので、それを各章ごとにイタリア語に翻訳し、
「エホバは告げる・・・新たな日の到来を!」といったあいさつ状と共に知人に送りました。

1949年2月13日、私はソルトレークシティーの本部のウイッツォー長老に手紙を出しました。
ノルウェーに行っていて留守にしていたウイッツォー長老から返事が来たのは、
1950年10月3日のことでした。
私は再び、自分は神の王国の律法と戒めを守り、
神の僕、息子として忠実に生活してきたつもりであるから、
早急にバプテスマが受けられるよう配慮してほしいという内容の長い手紙を書いたのです。
ウイッツォー長老は早速当時のスイス・オーストリア伝道部の
サミュエル・E・プリングハースト伝道部長に連絡を取り、
シシリーに行って私にバプテスマを施すよう指示してくれました。

1951年1月18日、シシリー島にやって来たプリングハースト伝道部長は、
エラメーザで私にバプテスマを施してくれました。
これは、シシリー島での最初のバプテスマとなりました。
その後、1956年4月28日に私はスイスのベルンで神殿に入り、
自分自身のエンダウメントを受けました。
こうしてやっと私は天父のみ前に出ることができたのです。
神の約束は完全に成就されました。
ついにこの書物の出所が明らかにされ、信仰の力を満喫できる日が訪れたのです。

(「聖徒の道」1988年7月号 P14-18)P14 P15 P16 P17 P18
(“I Will Not Burn the Book!”  Ensign,1988年1月号,21)
この話は「大いなる富」というタイトルで映画化された。

=> 大いなる富(教会サイトの手話付き動画)

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