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「こんな時代に母になり。」

佐々木優子

測る? 測らない?(2012年12月)
 松本市に移住して、二度目の冬の訪れです。ここに来て、初めて知ったこと、それは、冬、地場産の野菜は店頭から姿を消すことです。住んでみないとわからないことってたくさんあります。はるばる松本まで来たのに、野菜の確保に悩まなければならないとは、、、。せめて数値を出してくれればなぁと思うのですが、、、。産地が○○でも不検出なら買えるのか?それを5歳の娘に食べさせていいのか?複雑な気持ちです。「生産者はわざわざ高そうな所の物をとってきて測らないよ。」「ストロンチウムは測っていないし。」などなど考え出すとキリがなく手が出なくなってしまいます。自分だけ食べるならほどほどでも、細胞分裂が盛んな子供はいかがなものか、、、。産地はどこか、放射能測定を行っているか、かたっぱしから電話をかけて確認する。気が重い作業です。「不検出です。産地は○○です。」と、明確な答えが返ってくる時もあれば「どうしてそんなことを聞くのか?」と聞いてくる会社も今だにあります。食材について、しつこく問う私たちのことを、神経質な、ヒステリックな、と非難する人たちがいます。しかし、万が一、我が子に何かあった時、いったい誰が責任をとってくれるのか?「大丈夫よ。」は、せめて、5年たってから言ってもらいたいものです。
 ただし、命の糧を他人に作ってもらいながら、それを測れとは、失礼な事だ!測る、測らないは生産者が決めることだ!という意見、一理あると思います。(これを堂々と言えるのは、消費者のことを真に考えている生産者に限ります)
 我が家の食卓にのぼる無農薬の野菜、安くてびっくりします。これでやっていけるの?
 農薬を使わないって、どれだけ大変なの?土にまみれ、暑さ、寒さの中、畑で作業する農家の方を思うと、測れというのは、ちょっと勝手すぎる?でもお金払っているし、消費者あっての生産者だし、、、。それぞれの言い分は、その立場にならないとわからない。そして、答えはひとつ。そんなに心配なら、自分の目で確かめる、自分の手で作る、につきます。まず、味噌を作ろう。少しだけど、しょうゆもできるね。塩は、松本では無理?そういえば、石川県のすずという所、塩を作っていた、いつか娘とを見に行きたい。すずは反原発を訴え続け、建設中止になった所。
 畑もやらなきゃ。何だかわくわく楽しくなってきます。
 作ること、それは喜びです。

「それは、愛」です。(2012年11月)
 先日、私の父の一周忌があり、故郷茨城に帰りました。私の実家は、県西地区にあります。幸い、県内では放射能汚染が比較的少なかった地域です。しかし、被災した当時、私たち家族は県南のつくば市に住んでいました。つくば市は、茨城県の中では汚染は高く、年間被ばく量が1mmシーベルトを超える所が若干あります。2011年3月15日、市内の研究機関が公開した最高値は、1.54マイクロシーベルト/hバックグラウンドをたすと1.6マイクロシーベルト/h)。我が家では、窓をしめ切り、家の中にこもりました。それから、内部被ばくのこと。私は、娘には水道水は一切口の中に入れないように努めた。うがい、風呂の湯、そして、料理に使う水。野菜は水道水で洗ってしまった。洗わなければよかったと、後悔しています。野菜に関しては、関西以南の物を見つける事は困難な状態で、北海道のじゃがいも、にんじん、玉ねぎばかり食べていました。栄養の面では乏しいけれど、食べられるものがあるだけでもましと、自分に言い聞かせながら、、、。
 今、こうして当時のことを思い出すと、娘を放射能から守るために、私にできることはやったのでは?と思うこともできますが、後悔はつきません。あの時、ああしていれば、、、なんていうことはいくらでもでてきて、しばらくは、涙を流さない日はなかったです。いつの頃からか泣く事もなくなり、気持ちも楽になりました。もちろん、今も娘を守るためには、私にできることは精一杯やろうという思いは変わりません。本当は、もっと遠くに移住したかった。しかし、娘が一番大好きな父親からなるべく離れないようにしなければ、それも大切なこと、、、。 週末だけでも主人が来れる所、そして、汚染が少なくてすんだ所、、、。 そういう事情で、松本を選んだわけです。
 久しぶりの故郷は、晩秋の陽気で暖かく過ごしやすかったです。そして、松本では見ることのできない夕焼けを見ることができました。娘はお父さんとずっと一緒で楽しそう。そして、祖母、いとこたちにかまってもらえる。何よりも私も楽ができる。そして、娘に優しくできる。ああ、このままここにいられたらと、何度思ったことか、、、。 しかし、その思いを差し引いても、放射能汚染の事は、私の頭から離れることはなかったです。庭の土や、草花を娘が触れば、「手を洗いなさい」と、しつこく言う私がいます。「どうしてなの?」と聞かれれば、本当の事を言いました。こんな毎日は、やっぱり続けられない。結局、移住を決意した時の気持ちを思い出すことになったのでした。そして、娘を思う気持ち、「それは、愛」なのだと、ある方に教えていただきました。その言葉に、どんなに救われたことか。母子避難の日々は続きます。

出る杭は打たれる(2012年10月)
 わかってるってば。電気を全く使わない生活は無理だということ。
 たまに車も使う。新幹線も飛行機も乗りますよ。日本の原発をすべて停止して、火力発電に頼ればCO2がたくさんでることも知っているわよ。CO2が増えて地球温暖化が加速して「ツバル」が沈んでしまうことも。火力発電が絶対いいなんて思ってないよ。原発をなくせばそこで働いている人たちが職を失うことも。私自身が原発に染まっていることも。(祝島に行って水洗トイレがいかに快適か、本当に身にしみたわよ。)原発から作られるエネルギーで快適・便利・スピーディな生活を散散満喫しておいて、今さら反原発はおかしいんじゃないの?って言われても気がついてしまったのだから仕方ないでしょ。じゃあ、どうすればあなたは気がつくの?人がたくさん死ねば気がつくの?そうならないと動かないの?えっ、誰が死のうが動かない?。。。。。。太陽光発電も風力発電も地熱発電も何かしらの問題があることも知っている。壊れた太陽光パネルはどうなるの?風力発電って電気で動かしているんでしょ。地熱発電で電気を作ればいつかは温泉が涸れることも。原発に代わるエネルギー源がないことも知っている。だからといって黙るのはイヤなの。知らんぷりできないの。わかってるってば。私がいくら節電したところで、世の中何も変わらないことも。でも原発はイヤなの。
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 我が家のベランダには、被爆イネがすくすくと育っています。娘の愛情「お米さん、大きくなあれ、おいしいお米になあれ」のおかげか、穂が実りました。陽があたらないベランダのせいか、たわわにとまではいきませんでした。この被爆イネは、祝島から届いたものです。広島、長崎に原爆が落とされた時のイネが、人々の手によって全国に広められ、祝島でも育ち、そして我が家にもやって来ました。もみをさわると、中がカラッポのものがあります。それが被爆イネの特徴です。戦後、毎年毎年、穂が実っても中はカラッポです。私たちの体の中でも同じことがおきているのでしょうか。

 昨年の夏、初めて訪れた離島、祝島。反原発を訴え続けて30年。かたや、こちらは反原発を心に決めて、たったの1年半。まだまだ若輩者です。

未知との遭遇(2012年9月)
 私の人生において、こんなに勉強に励んだことがあっただろうか。本を読みあさり、講演会に足を運び、人の話に耳を傾け、そして友人と語る。その集中力は1年半以上も続いている。まさに「マイブーム」。私をとりこにした、その名は「放射線」。この集中力が過去に発揮できていれば、私は別の人生を歩んでいたかもしれない、とさえ思う。(人は真に知りたい事があると、自ら勉強するのね。これを知れば子育ては楽?)
 今までならとても憶えられない単語(シーベルトだのベクレルだの)が、日常会話の中に入り込んでしまった。そしてわかったことは「未知との遭遇」なのだということ。調べれば調べるほど「人間は放射能の事を何もわかっていない」そして、放射線が人体に与える影響もわかっていない。しかし、どうやら、幼ければ幼いほど、影響を受けやすいということは確実だ。そんな「わからない」「恐ろしい」ものから離れたい、と思うのはあたり前の事。今なら、心落ち着いて考える事ができる。しかし、なぜに私は「故郷を捨てられない。友人を裏切れない。」などと思ったのだろうか?「逃げる」ことに罪悪感さえ持った。不思議なことに、私だけでなく、友人もその事を口にしていた。そして、いざ私が移住を決意すると「おまえは逃げるのか」と非難する人もいた。この村八分的な思想は、日本人のDNAに組み込まれているとしか思えない。誰かこの深層心理を解明してほしい。
 わからない事に対して、「大丈夫です。安全です。」こんなことを言う人々を、とても信じることはできない。信じられない人々に、命を預けていた自分も愚かもの。
 ところで、今こうして、茨城を離れ、娘とふたり松本で生活しているのは、夢なのでは、と思うことがしばしばある。巨大地震の時に頭を強くうって、意識がなくなって、眠り続けているのでは、、、なんてね。あたり前だった日常、娘が土をさわっても、雨にぬれても、怯えることのない日々、、、。震災前に戻れたら、何の不安も抱かず、食材を選んで、ごはんを作っていたおの頃に。
 しかし、安穏とした日々が、実は夢の中だったのである。54基もの原発に囲まれた生活。そこで働く人々、汚れていく海、空気。それを知らず、知ろうとせず、日常を送っていた震災前こそが、夢の中だったのだと確信する。もう、知らなかったことにはできない。どうする?自分。

そしてわたしは、、、。2012年8月
 2011年3月11日、一番最初の大きな揺れの後、私は地球に畏敬の念を抱いた。地球ってこんな大きな力を持っているんだ。私は、あなたにはかなわないわ、、、。
 理性で動く人間である前に、感覚的にとらえる動物なんだと、自分の事を思うようになる。それは、3.11前後に説明のつかない体験をしたことによる。その頃の私は、精神も肉体も今の私ではなかったように思える。3.11の2、3日前から、体がだるく眠けを感じる。友人の中にも同じような症状を口にする人が少なからずいた。「春先だから?」そして、当日の朝、経験したことのないひどい頭痛におそわれた。頭のてっぺんがズキーンと痛く、めまい、吐き気を伴う。もともと頭痛持ちで、気圧の変化で体調が崩れることはわかっていた。いつもなら1日寝込む所だが、なぜかその日は家にいる事がいやで、当時3歳の娘を連れて、近くの公園に行くことにする。外の空気が吸いたい。きれいな空が見たいと強く思ったことを覚えている。そして、きれいな空気を吸うことができる最後の日となってしまった。
 家から持ってきたパサパサのパンをベンチに座って、娘と食べたことは一生忘れることができない日となる。公園には学生、サラリーマン、子連れママなどがいて、いつもと変わらない金曜日のはずだった。急に雲行きが怪しくなり、日差しが消え、震えるほどの寒さ。それでも家に帰るのがいやで、側の図書館に入る、その時、耳の奥でゴッーと、地鳴りが響いた。「来たよ」と、私の中の誰かが言った。まるで来る事がわかっていたあの感じを何と表現したらよいのか。家に戻り、散散たるあり様を見て、家の中にいなくて本当によかったと思えた。そしてその数ヶ月前から、めまい、吐き気、頭痛に悩まされていたのが、その日を境にぴたりと治まる。
 そして、2010年8月に見た夢を思い出すことになる。娘とふたりスーツケースをゴロゴロひっぱって、あてのない旅をする夢。なぜふたりなのか?そして悲しく重い気持ちで歩く。震災後に移住地を探して旅をしていた時に、その夢を思い出し、ゾッとした。なんだ、今の私たちの事だ。
 私は、自分の気持ちに素直に、そして直感を信じようと、心に強く思うようになる。第六感を鍛えるには、まず、食べ物だと思う。安心、安全な物が食べれる所を探そう。そして、わたしは、松本を選んだ。

それでもわたしは・・・2012年7月
 6月29日、私も首相官邸前のデモに参加した。5歳になったばかりの娘を連れて。そして、茨城に残してきた主人と待ち合わせた国会議事堂前駅の3番出口に張りついていた。
 次から次へと人が出てくるその出口は、ちょっとよそみをすると、主人を見失ってしまいそうなくらい混雑していた。道路は人でいっぱいで息苦しいほどだった。
 18時を過ぎると、どこからか「再稼働反対!」と声があがった。その声につられて群衆はみな声をあげ始めた。私も一緒に抗議の声をあげた。しかし、主人は声をあげない。久しぶりに再会した娘を抱っこして、見物客のように歩いていた。
 私がデモに参加したり、反原発の集まりに行くことを好ましく思っていない彼は、居心地悪そうにしていた。「主婦は家の事だけをしていればいい」と思っているようだ。署名活動をしている人がよく言っている「サラリーマンは全くしてくれない」と。
 今回のデモには数万人集まったと言われるが、まだまだ・・・。まわりを見渡すと、この人もあの人も、抗議の声をあげて欲しい人がたくさんいる。まずはそこからなんだと思う。自分の身近にいる人に気づいてもらうこと。それを省いて、先に進むことはできない。(本当に根気のいる仕事。そして大切な事。)
 ところで、私は、昨年の10月に娘とふたり、茨城県から松本市へ移住してきた。いわゆる母子避難というやつです。主人は今も茨城で仕事をしていて、週末だけ松本に来る。5歳の娘でも震災の影響でこうなってしまった事は承知している。でも大好きなお父さんと離れて住まなければならないのは、とても悲しいようだ。
 週末の楽しい一時が過ぎ、お父さんが茨城に行ってしまった後、声をあげて泣く。泣くことは良いこと。私は思う存分泣かせていた。
 しかし、そのデモの後は少し違った。新宿駅のホームでお父さんと別れた娘。あずさの列車の中からいつまでも手をふっていた。しばらくの間外の景色を眺めている様子。変に思って娘の顔を見たら声を押し殺して泣いていた。
 こんな時は、自分の選択が正しかったのか思い悩んでしまう。そして、怒りや憎しみで心がいっぱいになる。しかし、誰に対して?(そして憎しみからはろくなものは生まれない)主人には、娘がお父さんを思って泣いていることは、口がさけても言えない。言ったら、茨城に連れて帰るだろう。
 茨城の友人に言われた言葉を思い出す。「家族離散は、放射線よりも子供の成長に悪影響があるよ。」と。それでも私は、移住という道を選んだのである。

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