No.042

2022年06月19日

呪われた玄昉

太宰府市


玄昉の墓


 観世音寺講堂(本堂)脇の路地を北に進むと、間もなく「玄昉(げんぼう)の墓」が見えてくる。そもそも玄昉とは、いつ頃に生きて何をした人なのか、そこから説明しなければなるまい。


興福寺の五重塔


 頃は奈良時代である。近鉄奈良駅から大仏殿に向かう途中の右手に見える五重塔が、玄昉が活躍の足場とした興福寺である。彼が生まれた年月日までは定かでないが、俗姓は阿刀(あと)氏と呼ばれ、現在の岡山県で幼少を過ごしたらしい。その後幼くして出家し、仏教の世界に身を置いているから、根っからのお坊さんであることは間違いない。「天平18年には奈良時代の法相宗(ほっそうしゅう)の僧」と記録されている。ときの天皇は、奈良の大仏さんを拵えたあの有名な聖武天皇である。
 さて、本編の主人公である玄昉は、この時代の天皇や事件・出来事とどのように関わったのか、どうして九州の太宰府に彼の墓があるのだろうか。

玄昉の墓
 18年間の中国大陸での厳しい修行を終えて、吉備真備(きびのまきび)らと一緒に帰国した玄昉が、日本政治の表舞台に立つのは天平7年(735年)のことである。帰国後玄昉と吉備真備は、法相宗の本山である興福寺に籍を置いている。修行中に玄宗皇帝に呼ばれて三品(さんぼん)の位に准じられ、もっとも位の高い人ににしか与えられない「紫衣(しえ=紫色の法衣や袈裟のこと)」を許された。唐における修行の成果と仏教の伝来を身をもってなしたことなどが、聖武天皇をして、玄昉を重用することになったのだろう。その後これまた僧侶の世界では最高位に属する、「僧正(そうじょう)」の位を頂いている。

藤原弘嗣の乱
 出る杭は打たれるというが、まことにその通りである。勝ち誇った態度に出る玄昉を、政敵の藤原仲麻呂や藤原不比等(ふびと)の孫にあたる藤原弘嗣(ふじわらのひろつぐ)らが放っておくわけがない。
 弘嗣は、九州の大宰少弐に就任後、玄昉や吉備真備を権力の座から排除しようと画策する。弘嗣は、強大な兵力を組織して、時の政権に反旗を翻したのだった。(藤原弘嗣の乱)


観世音寺講堂


 だが、運は弘嗣に味方しなかった。敗れた弘嗣は殺された。弘嗣の死後玄昉は、観世音寺の造営責任者(観世音寺別当)として大宰府に左遷されることになった。観世音寺は、天智天皇の母である斉明天皇を弔うために発願された寺である。発願から80年後、ようやく寺が完成することになった。玄昉のお話しのすごいところは、まさしく藤原弘嗣が無念の死を遂げた後からの出来事である。

天に連れ去られ…
 玄昉が都から大宰府に降りてきた翌年の天平18年。いよいよ観世音寺が完成した。観世音寺の造営責任者として大宰府に赴任してきた玄昉は、観世音寺別当として並みいる僧の首座の席に着き、導師を務めることになった。


観世音寺の梵鐘(国宝)


 空は快晴で、関係者が居並ぶ中で玄昉は声高らかに斉明天皇の菩提寺完成を告げ、諸々の神仏に今後の安泰を祈願した。式も最高潮に達しようとするその時であった。あれほど眩しかった天空が、一転して厚い雲に覆われた。雷光は四方八方に入り乱れ、雷鳴は、地上の民を震わせるごとく響き、あちこちに落雷の轟音が。
 その時であった。雲の一角が割れ、真っ赤な緋色の袈裟をまとい、冠を載せた物体が現れた。髪をかき乱し、皮膚は血の気が失せていて、その姿は人間ではなかった。まさしく人間の形を成した霊界の生き物であった。霊界の魔物は、雲上から青筋がたつ細い手を地上に伸ばし、鋭い爪を怒らせて、玄昉の雁首に突き立てた。更にそのまま天上に持ち上げると、両の手で股を引き裂き、胴体と頭部を切り離して地上に向かって叩き捨てたのだ。
 胴体はそのまま式典の会場に散らばった。あっけにとられる式典参加者に、雲上から薄気味の悪い笑い声が。「我は藤原の弘嗣なり。我と我ら一族を苦しめるものへの見せしめじゃ~」と叫ぶや否や、黒雲と一緒になって天の彼方へ消え去った。
 口元が緩んだままの参列者が、気を取り直したのは黒雲が払いのけられた後のことであった。僧らは、袈裟をからげて落ちている玄昉の遺体の欠片を拾い集めた。


奈良興福寺の猿沢の池


「おかしい!」。一人が大声を上げた。「首がない。玄昉殿の頭がない」
 一同が手分けして周囲の野原を捜すが、玄昉の首から上が見つからない。それもそのはず、怨霊と化した藤原弘嗣が投げ捨てた首は、西風に乗って、ゆらりゆらりと東方へ流れ去ったのだ。落ちた場所は奈良の都のど真ん中、吉備真備とともに過ごしたあの興福寺近くであった。
 玄昉の首塚は、興福寺のすぐ近く、高幡町に「玄昉の頭塔(づとう)」として、今も残っている。
(完)
    
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