草思社 |
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先ずは名前から入る。マークス寿子、著者略歴によれば正式名はThe right honourable Toshiko Lady Marks of Broughtonらしい。マークスという名字からも分かるとおり、著者は英国人のマイケル・マークス氏(Lord Marks of Broughton)と結婚したのである。このマイケル・マークスというのは、英国最大のスーパーマーケットチェーンであるマークス&スペンサー(M&S)の3代目当主なのだそうだ。M&Sってのは英国で大体どこの街でも見掛けるスーパーで、それほど安いわけでもないし、2〜3年前まではクレジットカードのVISAもMASTERも受け付けなかったところだ。ここは洋服も扱っているが、今ひとつセンスがないと英国人には不評であり、M&Sの服を着ていることがばれると何だか気恥ずかしいと、まあこんな感じのスーパーなんである。
この当主が貴族の称号を貰っているので、当然嫁さんになった寿子さんも貴族になった訳である。そこら辺の事情は『英国貴族になった私』(草思社)という本に詳しいのかも知れない。読んでないので分からないが、よくこんな無邪気な題名の本を出せるなと、それだけで感心してしまい、とても読むところまで気力が続かない。
ところで、このマークス寿子氏、実は1985年にマイケルと離婚しているのである。それなのに、未だに「男爵夫人」だとか、「レディ・マークス」だとか、「マークス寿子」だとか称しているのは、よっぽど英国貴族になって嬉しかったのだろうか。まあ単に英国には戸籍というものが無いから、そういうことが可能なんですけどね(戸籍も無いのに「正式名」ってのも釈然としないが)。余談だが、矢野顕子は坂本龍一の前の旦那が矢野さんという人で、そのときにデビューしたので、離婚して再婚しても前の旦那の姓を名乗り続けているという珍しい例(元々の姓は鈴木)である。そう言えば、デヴィ夫人だって、もう「夫人」じゃねえだろ。
それはさておくとして、本文の検証に入ろう。「大人の国イギリスと子どもの国日本」って題名を見ただけでどんな本か分かろうと言うもの。古本屋で100円で売られていなければ、私も読むことはなかったでしょう。まあでも実際に読んでみて、ここまで突飛なことを言っていたのかということが分かると、何と言うか、それはそれで世界の広さを知ったという意味で、読んで良かったなと少しは思っています。皮肉じゃなくて。
さて、この本、突っ込みどころ満載なので、長くなりますがお付き合い願います。
先ず日本を久々に訪れて街の景観が美しくないことを嘆く。まあいいでしょう。確かに街の景観は欧州の方が綺麗です。かなり建物の建築に制限を加えている結果ではありますが、無責任な一外国人として見るなら、欧州の街の方が綺麗でいい。但し著者はゴミは日本の方が少なくて綺麗だと言う。問題はその次だ。
日本の街がきれいなことはすばらしいのだが、街を歩いていると、不思議なことに、そんなきれいさがかえってゆとりのなさを示しているようにも思えてくるのである。
なぜなのだろう。日本では、小さな家がそれぞれ自分の家庭だけを守って暮らしているからではないだろうか。たとえば、自分の敷地をブロック塀で全部囲ってしまい、外から中がまったく見えないようにしてしまうというようなことをする。(pp.13-14)
ここを読んで分かる人はいるのだろうか。「自分の家庭だけを守って暮らしている」ことが「街がきれい」なことの理由になるのだろうか。はたまた、「自分の家庭だけを守って暮らしている」ことが「ゆとりのなさ」の理由なんだろうか。全く論旨不明である。その続きは、
確かに鉄の門の前には鉢植えの花を並べたりしてあるが、それは、自然に家の中が見え、自然に庭が見えて、道行く人みんなが楽しむというふうにはなっていないのである。(p.14)
とあります。そりゃそうだろ。自然に家の中が見えたら困るっつうの。英国の家は、道路から家の中が丸見えになったりしているが、それは清教徒の教えに基づくものと聞いたことがある。マークスさんは日本人も家の中を見えるようにしろと言いたいのだろうか。それに、英国の多くの普通の家には、玄関の前の小さな庭があることが多い。この庭は本当に小さなもので、犬も飼えない程度の広さしかなく、確かに四季の花が植えられている(育てたものとは限らない)ことが多い。それは道行く人みんなが楽しめる。しかぁし、その家の公道に面していない裏側の方に遙かに広い庭が広がっているのが、これまた普通の英国の家なのである。道路から見ただけでは、そんな広い庭がその家にあるとは想像できないくらいの庭である。そっちの広い方の庭で犬を飼ったり、色々な植物を育てたりするのであるが、当然、ブロック塀か何かで囲われていて道行く人々は楽しめません。日本の家の建て方の方が、庭の露出度で言えば高いと思うのだが、どうだろう。あでも、英国でも大邸宅になると、門から庭がどーっと広がっているのは確か。でもそんなのごくごくほんの一部の大金持ちのお話。さて次。
東京のふつうの家庭で、車を二台も三台も持っている家があるが、公共交通機関がこれほど便利な東京で、なぜ車がそんなに必要なのだろう。父親と娘が一台ずつ必要だといって二台の車をもっている人がいたのには驚いた。(中略)であれば、日曜日にばらばらに遊びに行くときに必要だから二台あるのだろうか。どう見ても、どうしても車が二台必要だからというのではなくて、車を二台買うお金があるから買ったのではないかとおもいたくなる。(pp.15-16)
貴族様ともなると感覚が違ってしまうんでしょうか。父親と娘が日曜日にばらばらに遊びに行けるので単純に便利だと思いますけどね。「買うお金があるから買ったのではないか」なんてのは、言い掛かりってやつだ。そもそも人の勝手だろ。お次はマークス氏がラッシュ時の新宿駅で「群衆」(ただの人混み)を見たときの感想である。
それにしてもあの群衆の怖さはなんなのだろう。(p.20)
この後も満員電車が怖いという記述もあるが、どういう感覚や。よっぽどロンドンの群衆の方が怖いっつうのよ。暴徒化する危険性で言うと、日英どっちが危険かね。確かに満員電車でどんどん乗ってくるのは日本の方がひどいけど、それと「怖い」は別物。でも、英国の駅が人の流れを一方通行にしているのは、素晴らしいと思う。これぐらいは日本も見習うべきではないだろうか。因みに、著者は英国の牛の大群より日本の群衆の方が怖かったという頓珍漢な比較をしている。較べるべきなのは英国人の群衆だろっ。
次はゴミの話。著者は日本で電車内に散らかったゴミを車掌さんが拾うのを目撃する。そして、車掌と清掃係の役割がきっちり分かれている英国では車掌がゴミを拾うことはない、という文に続けてこう言う。
もっとも、イギリスでは車掌さんがゴミを集めて歩かなくても、列車の中はそれほど汚くならない。お客がみんな自分で片づけるからである。ゴミの始末は食べた人の責任というのがあたりまえのことになっているのである。(p.31)
ここは少しでもロンドンに滞在したことがある人なら「そんなわけねーだろ」と突っ込めるところだ。英国の電車を見ればゴミだらけ(バナナの皮とか)だし、道路もゴミだらけだ。第一、本人も別の箇所で
ロンドンなど…(中略)…ゴミがあっちにもこっちにも落ちていて、最近とみに汚くなった(p.13)
って書いてるやんけ。これだけでも、本書の内容が場当たり的に適当なことをろくろく調べもしないで、自分の見た限りで勝手なことを書き殴ってるだけの本であることが知れようというものだ。
私の分析では、英国人は自分の家は綺麗にするが、公共の場所は汚しても平気だと考えているフシがある。なぜなら、公共の場所はちゃんと掃除を担当する人がおり、そういう人のために我々は税金を払っているのだという権利意識である。尚、以下は英国ではなくてフランスで私が体験した話だが、ゴミについて強烈に覚えている出来事である。卒業旅行で初めて欧州に行ったときのこと、飛行機でオルリー空港に着いてバスに乗り換えようとしたとき、友人が飲み物の缶か何かを持っていた。ところがバスの中は飲食禁止、かと言ってゴミ箱も見当たらない。友人が困っていると、フランス人の添乗員は、その飲み物を取り上げて道路に投げ捨てたのである。「ちゃんと道路を掃除する係の人がいるから大丈夫」と言って。そのとき、西洋ってそういう世界なんやと思った。
ワープロを買いに行けば行ったで、店員から「これが新しくていちばんいい」と奨められる。それに対して
「新しい」と「いちばんいい」とはセットの言葉になっていて、新しいけれども悪いという言葉は出てこない。(p.43)
などと考えられる理屈が信じられない。新しく作ったものが前より悪くてどうすんだよ。その上、機能や書体等で選択肢が多すぎる、英国は選択肢が少ないから楽である、という記述もあります。もうどうしようもないですね。自分がワープロの機能を消化できないだけなのに、日本はこう英国はこうという言い方をしないでもらいたい。と言うか、するな。
ああ疲れる。とにかく、訳の分からん理屈のいちゃもんばっかりなんである。どうもまとめてみると、日本のように便利すぎるのは良くない、イギリスみたいな少しぐらい不便な方がいいんだ、ということになりそうだ。がそんなのあんたの勝手な考えだろと言われりゃ終わりだ。人類の発展は便利さを追求してきたからこそ成ったぐらいのことは誰でも分かりそうなことだし、英国だってコートジボアールから見れば便利すぎる国だ。私の見るところ、著者は「昔は冷房なんか無かった」と息巻く年輩者(マークスも十分年輩か)と同じメンタリティなのであって、そういう年寄りには「じゃあ昔は電車なんか無かったのだから、明日から歩いて通勤して下さい」と言ってやればいいのである。
とまあこんな調子で突っ込んでいくとなかなか終わらないので、今日はこれぐらいで勘弁しといてやろう。
尚、林信吾氏の『イギリス・シンドローム』でも、本書は滅っ茶苦っ茶に叩かれているので、同書中に言及のある部分(レストランてセットメニューが出てきた話、プールに行ったら長々と書かれた注意書きを貰った話、等)は本稿では触れなかったが、大凡は林氏と同意見であるため割愛させていただいた。
最後に一応フォローしておくと、まあこの本が出たのは平成4年、ということは書かれたのは日本がバブル経済の最中だった頃で、著者はそういう浮かれた日本に苦言を呈したかったのかもしれない。
それに罵倒ばっかりしてきたが、共感できない部分が無いわけではない。日本人が平和惚けしているという部分であるとか政治の部分とかである。特に日本の政治では近年、英国に学ぼうという風潮が高まっており、例えば党首討論(クエスチョン・タイム)だとか、政治家と官僚との関係のあり方だとかまあ色々ある。確かに立憲君主制の議院内閣制であるところまでは同じだが、いかんせん有権者・納税者の意識が日本はまだ低い。国政選挙は地元エゴじゃなくて国益で選ぶべきだし、その逆も然りである。その点は英国に私だって軍配を揚げます。(ここら辺の話は英国政治の本のところで述べることになるでしょう)
本書の続編として『ゆとりの国イギリスと成金の国日本』(草思社)というのも出てるらしい。題名を見ただけで寒気がしますが、怖い物見たさの方はどうぞ。私は読んでませんが。
【評価】寝てた方がまし。