第二章 一歩二歩歩みだす

神を見た!
 中原中也といえば「詩人」というイメージが強いが、彼の文学的出発点は意外にも短歌であった。  中也の「我が詩観」の付書である「詩的履歴書」によれば、中也が八歳であった大正四年に「亡くなった弟を歌った」のが、彼の文学上の出発点であるということだが、「歌った」というだけで、詩なのか短歌なのかは不明である。そして十一歳の大正七年に「その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す」とあって、十四歳の大正十年には数人の友人と『末黒野すぐろの』という歌集を刊行し、「少しは売れた」と記している。
 その後、大正十二年に「ダダイスと新吉の詩」を読み、翌年富永太郎より仏国詩人等の存在を学ぶなどして、詩に専念しようと短歌から離れていくのである。
 それを志していたかどうかは別として、彼が最初に手がけたのが短歌だったのは、母の中原福が乗毛のっけ春海の指導を受け、『婦人画報』などに短歌を投稿していた影響などもあるだろう。
 中也が「地方の新聞」と言う『防長新聞』に短歌を投稿したという大正七年から二年後の二月、彼の短歌は『防長新聞』と『婦人画報』で入選している。この年の四月に彼は旧制の山口中学に入学するのだから、投稿した大正七年の時点で彼はまだ小学生なのである。以降、十六歳になる大正十二年までに『防長新聞』で彼の短歌の八十四首が入選掲載されたという。
 そして前述の通り大正十一年には、吉田緒佐夢、宇佐川紅萩らと、歌集『末黒野』を自費出版し、「温泉集」という二十八首の短歌を彼は載せている。
 さて、この章で問題になるのは、その『末黒野』出版と同じ年の十月に、彼が詠んだ四首の歌である。
 この年、彼は家庭教師である山口高校の学生村重正夫の紹介で、大分県にある浄土真宗西本願寺派の西光寺でひと夏を過ごしている。そこでは住職の東陽円城から個室を与えられて、勉学に励んだ。
 十二月に再び中也は西光寺を訪れるが、その間に詠まれた四首の歌が後に「見神歌」と呼ばれる。

  人をみな殺してみたき我が心 その心我に神を示せり
  世の中の多くの馬鹿のそしりごと 忘れ得ぬ我祈るを知れり
  我が心我のみ知る! といひしまゝ 秋の野路に一人我泣く
  そんなことが己の問題であるものかと いひしことの苦となる此頃

 第一首目を『歎異抄』の「悪人証機説」と結びつける人もいるがそれが語句の表面的なことであろう。浄土真宗の寺で学んだのだから、中也も『歎異抄』くらいは読んだかもしれないが、問題はその内面的な心である。
 人を殺すということは、たしかに『神』のみ意ではない。しかし、人間はその魂が勝手に『神』から離れすぎ、魂に曇りを包み積み来たりし結果、人を片っ端から殺して満足感を得たいという欲望を得るに至ってしまった。「いや、自分にはそんな欲望はない」という人がほとんどであろうが、心には確かにそのようなことは思わないだろう。しかし、心よりももっと多くの想念の世界ではどうだろうか? それはともかく、そういった人を殺したいという欲望の想念が神を示すといえば、明らかに矛盾しているとしか思えない。だが、「殺してみたき・・・」という、その「みたき」がポイントだ。本当に人を殺してしまっては、『神』は示されない。だが、「殺してみたい」と自分の想念の奥底にある欲望、それに気付いた時に愕然とする。その根底の欲望に気付かない人は、ある日突然本当に人を殺してしまったりする。しかし、この欲望の自覚があり得て、そしてそれに驚愕した時、人間のさが、それも「神』から勝手に離れ過ぎた結果としてのさがが見え、またそのようなさがを持つに至ってしまったことへの申し訳なさを自覚し、お詫びと反省の想念を持った時に『神』は救いのみ手を差し伸べられる。この逆説(パラドックス)のからくりは、こういうことだと思う。やはり多少は「悪人正機説」の匂いもする。しかし、その「悪人正機説」もどうもそれを誤解して「本願ぼこり」に陥っている人もいたりする。「悪人正機説」の真意は、『新約聖書』の「ルカによる福音書の18章10〜14節にある話に通じるところもあろう。
 二首目は、世の多くの人々の中で孤立した心を詠んでいるように見えるが、「世の中の多くの馬鹿」とは『神』を認識し得ぬ人、あとで触れるが、中也がその「芸術論」で述べるところの「芸術人」に対する「生活人」のこととしてよいだろう。もっともまだ十五歳の中也の中で、大人になった後の中也が述べるような図式がすでに確立していたかどうかは分からないが、その萌芽と見ることもできる。
 多くの信仰者は、これと似たような経験があるだろう。いくら他人に『神』の教えを宣べ伝えても、唯物主観に凝り固まった今世の人々からは白眼視されるのが落ちだ。だからといって、自分が伝える『神』の教えを受け入れない人々を裁くことは、『神』は決してお許しにはならない。そのジレンマの中でなし得ること、それは「祈り」なのだ。「多くの馬鹿のそしりごと」に腹を立てて喧嘩をし、その馬鹿を裁いてしまえればそれは楽なことだ。しかし、そうすると、自分自身の救われからも遠ざかってしまう。今度は自分が『神』から裁かれる。馬鹿をも愛し、馬鹿の幸せを願い、馬鹿を馬鹿でなくさなければいけない。しかし、「そしりごと」を「忘れ得ない」、つまりそんなそしりごとをも気にせずニコニコ愛を振りまいていくことはできない。だからこそ、『神』の力が必要なのだ。「祈り」とはそういった意味で、自分の心を「神」のみ意と合わせることなのである。だからこそ「意を乗り合わせる=意乗り(→祈り)」なのである。そうすることによって『神』の、我われに対する愛と同じ愛を我われも隣人に分け与えることができるのだ。「祈りを知る」とは、そういった『神』と自分との絶対的な信頼関係を樹立することだと思う。
 「我が心、我のみぞ知る!」という宣言には、「一人我泣く」という落ちがついている。なぜ泣くのか…口惜くやしいからだ。我が心を「我のみ」しか知らない。他人が分かってくれないという口惜しさ…しかしこの涙は口惜しい涙だけではなく、自分には『神』の存在が分かるという『神』との信頼関係を自覚しているゆえの有り難さを実感しての感激の涙…その両者が入り混じった涙だと、観念的にではなく実感としてそう思う。
 最後の歌は、世間に対する拒絶、世間なんて関係ないと断言する人主義(個人主義ではなく)、「自分は自分なんだ」という慢心、それらが真意にそぐわないものだということを知った時の苦しみの歌と解せる。この苦しみが後に中也をして、「最後の円転性」という境地へと至らしめるのではないだろうか。
 以上、中也の「見神歌」についての解釈を試みた。当然、私の主観による解釈だ。ここでも、客観的解釈など意味をなさないし、それは不可能である。無理に客観的解釈などをこじつければ、それこそ「世の中の多くの馬鹿」のたわごととなってしまう。私の主観はここで中也の主観と共鳴していると、信じて疑わない。
 「見神歌」とは、つまりは「神を見た」ということの宣言であり、「神を見た」とは肉眼で『神』の姿を見たとかいうことではなく、「『神』を認識した」ということであろう。もし、この「見神歌」だけが判断材料ならば、そう断定するのはいささか早計である。しかしこの認識と自覚が後の「芸術論」に引き継がれていることは容易に見てとれる。だから「芸術論」を語る前に、「見神歌」について触れたのだ。いわば、いろいろな意味でここが原点だからだ。
 さらにもう一言。仏教の寺で学んでいた中也が、なせ「神を見た」という歌を読んだのか。それは、宗教などという人知の垣根にこだわっていては『真理』には到達し得ないということを中也は知っていたのかもしれないし、だからこそキリスト教には入信しなかったのだろう。しかしキリスト教の影響をただいに受けた上で、さらに寺で学んだ中也は、ある意味幸せだったと思う。仏基両教のそれぞれの不完全さを補いあい、より『真理』に近づくことを許されたのだと思う。
 ではここでさらに詳しく、中也の宗教的経歴を見てみよう。彼が書いた「詩的履歴書」をもじって、「宗教的履歴書」と銘打ってみた。

宗教的履書
 中也の宗教的経歴を見るには、まずその故郷である山口と、彼の家系について語らねばならぬ。
 山口は室町時代には西国第一の覇者といわれた大内氏の本拠地で、都の貴族や僧侶のうち相次ぐ都での戦乱を避けてきた者たちを城下に置き、「西の京」とも呼ばれる盛況ぶりだった。ちょうど東山文化の特色でもある地方文化の興隆が、山口でいちばん顕著に見られたのもそのころだ。
 日本に初めてキリスト教がもたらされたのも、そんな時代においてであった。もたらしたのは言うまでも泣くカトリックのイエズス会に所属するフランシスコ・ザビエルで、ザビエルが鹿児島に上陸した後、日本で最初に布教活動を行ったのがほかならぬ山口であった。彼は領主の大内義隆の許可を得て、山口で布教した。
 こうして山口は日本におけるキリスト教史の黎明期よりキリスト教、特にカトリックと因縁深い土地柄である。後世、山口ではザビエル記念聖堂がキリスト教伝来四百年を記念して昭和二十七年に建てられて威容を誇っていたが平成三年に焼失、平成十年に近代的なデザインで再建された。
 そのザビエル記念聖堂から南西三キロほどの所に、湯田温泉という小さな町がある。今でさえ山口市内全域が本当に県庁所在地なのかと疑うくらいの落ち着いた静かな町なのだが、昔の湯田温泉一帯は下宇野令しもうのりょう村という一寒村だった。
 そこで、中也は生まれた。
 この湯田温泉は中也が死んだ翌年に、この湯田温泉に自由律俳句として有名な種田山頭火が一年ほど住んでいる。山頭火も山口出身で、中也は晩年に住んでいた鎌倉を引き払って故郷の山口に帰る予定をしていたその寸前に死んだのだから、もし死なずに予定通り故郷に帰っていたらおそらく山頭火との交流も生じたであろう。二人がその以前に交流があったという記録はないが、湯田温泉に逗留時に山頭火は、死んだ中也の弟の呉郎とは交流があった。中也の一周忌の頃に中原家を訪ねた山頭火が中也の母と妻、呉郎らと一緒に写した記念写真が残されている。なお、中也は若くして死んだので、先に死んだ中也よりも山頭火の方が二十五歳も年上である。
 さて、中也の宗教的経歴だが、その最初は彼の出生時にその祖父母の政熊とコマがクリスチャンであったことだ。政熊とコマは正確にいうと中也の戸籍上は祖父母であるが、血統上は大叔父、大叔母である。中也の母の福は政熊の兄の助之の娘で、兄に代わって家督を継いだ政熊が福を養女にしたのである。政熊は当時湯田医院を開業していたが、山口の米屋町の仮聖堂で布教活動をしていたフランスのカトリックの修道会パリ外国宣教会のヴィリオン神父(山口教会第三代主任司祭)より洗礼を受け、かなり熱心にキリスト教を信仰していた。ちなみに大正期になってから山口の教会はパリ外国宣教会の管轄を離れ、ここで最初に布教したザビエルの所属していたイエズス会の管轄となり現代に至っている。このヴィリオン神父のいた明治時代、幼少時の中也は祖母のコマに連れられてよく教会を訪れていた。
 中也の宗教意識はこのころに芽生えたと考えられるが、その第一はカトリックだった。
 第二の宗教的経歴として、彼の父の謙助が大のキリスト教嫌いだったということが挙げられる。謙助は政熊の養女で後に中也の母となる福のところへ小林家から入り婿としてきたのだが、軍医であった。謙助は中原家を、政熊が離脱していた浄土宗の菩提寺へと戻し、また中也の家庭教師の村重正夫の勧めで中也が西光寺に学びに行くことも許している。こうして幼い中也の宗教意識の中に、キリスト教と仏教が同居することになる。
 相反する二つの宗教を自分の内面に矛盾させることなく共存させてしまったところに、中也とて神道に立脚した本来は宗教に寛容な日本人の民族性を備えていたのかもしれない。しかし、それ以上に彼の天才的素質、言い換えれば彼が幼いころから『真理』に対する卓越した直勘力を持っていたともいえよう。キリスト教と仏教が別のものではなく本質的に同じものであることを勘じ、また彼がキリスト教に入信しなかったのはキリスト教や仏教がイエスや釈尊の教えと別のもの・・・・になってしまっていることをじたからではないだろうか。彼は宗教学的におキリスト教や仏教を研究した形跡はなく、また心で感じたのでもなく、その魂の「甚だしい力」で見てとったので、故に勘じたと書く。魂で知覚し得たということは、後の彼の「芸術論」を読めば分かるのである。中也は大正十四年に評論『地上組織』を発表して以来、その「芸術論」で『神』の存在、『神』と芸術との関連について語り続けている。
 その大正十四年といえば、中也が宮澤賢治の『春と修羅』を購入、愛読していた年だ。中也における宮澤賢治の影響はよく論じられるが、ここも根本は信仰の問題であろう。
 賢治の創作の根底にも、中也と同じくその基盤に信仰があった。賢治の場合は無二念に「法華経」に没頭し、日蓮を師と仰いだ。創作の合間には『祈祷経送状』『佐渡御書』などを抜き書きし、また田中智学の主宰する日蓮教団「国柱会」に入信している。このように賢治の信仰の基盤は中也とは異なり、また中也も賢治にそのような信仰基盤があったことを知っていたかどうかは知らないが、それでも中也が賢治の影響を受けたということは何を意味するのだろうか。
 やはりそれは自分と同じように賢治も信仰というものを土台にしているという中也の閃きと、また賢治のそれが自分と異なる日蓮や「法華経」への信仰であったとしても、そのようなことは問題としない中也の信仰の寛容性と柔軟さを物語っているのではないだろうか。宗教の垣根を打ち払ったところに見えてくる全宗教は元一つという『真理』に、中也は多少なりとも近づいていたように思われる。
 だからこそ、中也は賢治が「法華経」一辺倒だったのとは違い、キリスト教一辺倒にはならなかったのだろう。中也は晩年もよく教会を訪ね、カトリックの「公教要理」も読んでいたらしいが、同時に仏教、特に浄土教的な教えへの造詣も失ってはいなかったらしいことが「千葉寺雑記」「『他力』にぞっこん惚れぼれ致しました」などという記載からも分かる。