夢と生命原子 (1975年) 

 白昼夢でも千里眼でも、或いは睡眠中に見る夢でも、それが心霊現象に働く夢は自然色である。睡眠中に生命原子が体外に遊泳して、遠方の人の生命原子に作用することがある。その時両者は同時に同じ夢を見ている。例えばBがAに詰問されて呻く時、AはBに詰問して精魂を摺りヘらす。能動性はAに在り、Bは睡眠中に脅かされたことになる。そのあとで両者が目覚めた時、睡眠不足のような疲労感がある。睡眠とはいったいなんであろうか。眠気とは何を意味するのであろうか。  
 肉体的にも知的にも、疲労を癒すのは睡眠である。睡眠中に夢がなければ時空的無の境地を自覚する。無の尺度は天体的時間経過から推理することによって自覚する。睡眠中に夢を見ていると夢の経過と睡眠周波の繰り返しによって時空感を自覚する。熟睡から急に目覚めて跳ね起きると、睡眠の延長であろうかしばし思考力が定かではない。思考力が乏しいのは思考に働 く生命原子の減退であろうか。寝とぼけてうろうろする様は衝動的で白痴や狂人に似ている。 しかし急激な刺激に遭うと正気に還る。その様は狐憑きが苛苦に遭って正気に還るのと似てい る。睡眠は生命原子の減退を意味し、生命原子が減退することによって疲労が癒されるのであれば、生命原子の休養にこそ睡眠の意義がある。ところが生命原子は特殊原子であり、物理学上に現われない異端原子であるならば、それが宇宙的元素である以上、原子自体は休養を求めることはあるまい。休養を求めるのは生物体の分子ではないだろうか。即ち生命原子はその特性によって生物体を構成し、存続のために酷使する。疲労感は分子感覚の喘ぎであろうか。睡眠中の生命原子は総合中枢を休めて何をしているのであろうか。
 十年ほど前の朝日新聞に、徳島大学の松本淳治教授が夢の生理学について発表していたが、次に記してみよう。
  ――これまでは心理学や精神分析学などで取扱われていた夢が、生理学の分野で研究されるようになってきたので、最近いろいろなことが分ってきた。その主なものを拾ってみると――
  1、夢を見ている時は一番眠りが深い。
  2、誰でも一晩に四、五回、合計一時間半か二時間は脳の中に夢が起こっている。
  3、夢を見ている時には目玉がクリクリと動き、体の筋肉の緊張がなくなり、脳波は目が覚 めている時と同じような形になる。
  4、夢を見るようになると鼾が止まる。
 5、動物でも同じような現象が起こる。 等々。
 さて、夢が脳の中で起こっているというのは、見ていることではない。夢が終って五分後に起こすとウロ覚え、十分後に起こすともう忘れてしまっている。つまり、夢は一晩のうちに誰でも四、五回は脳の中に起こっているのだが、目覚めないとそのまま続いて眠ってしまうので忘れてしまうのである。
 次に、夢の起こり方に触れてみよう。夢を起こす刺激のもとは、脳の中でも下方の脳細胞に興奮が起こって、それが上方の大脳皮質に伝わった時に夢が起こる。大脳皮質は目が覚めている時に思考の働きをするところで、そこに残っている記憶が刺激によってつつき出されたときに夢になるわけである。しかし眠っているので意識がなく、総合中枢が働いていないために出て来る記憶がとりとめがなく統一されていない。それが夢の内容である。(以下省略)
 これは生理学的に夢を研究したものであるから、対象が生理現象にとどまっている。つまりそれらの生理現象と脳波現象が、睡眠をしていかに位置づけられるものか。総合中枢が働いていないということと、脳波が夢によって目覚めている時と同じ形になるということとの関係は何を意味しているのであろうか。睡眠中と目覚めている時とでは脳波が異なる。睡眠中は意識がなく総合中枢が働いていない。それなのに夢を見る時は、脳波が目覚めている時と同じ形になる。脳波を操っている力動は感情によって変化する。しかし、動物と人間との間には変化がない。つまり脳波は量関係で変化するのではなく、圧力の高低を示すのではあるまいか。睡眠中は意識がなくても、夢の画面によって感覚がつつかれ、感情が激しく揺れ動く、それが脳波を操るから、目覚めている時と同じ形になるのではあるまいか。即ち感情は生命原子の圧カ現象であり、空手術や奇術や忍術などの念力は、量と圧力が相俟って起こるのであろう。
 夢の生理学では、《夢を起こす刺激のもとは、脳の下方の脳細胞に興奮が起こって、それが上方の大脳皮質に伝わった時に夢が起こる――そこに残っている記憶が刺激によってつつき出されたときに夢が見える》とあるが、記憶は脳細胞の分子に残っているのではなく、分子に内在している生命原子の波動である。そこへ脳の下方から上昇して来た圧力が加わって波動をつつき、圧力は更に体外に遊泳して光の速度で外界を捉える。それに記憶が交錯して画面が妙に乱れるのである。例えば、Aの夢が生霊となって数百kmも彼方で眠っているBの霊に詰問したのは、Aの生命原子の遊泳であり、記憶に基づいて創造した画面である。夢が記憶として残るか残らないかは、生命原子の波動と圧力の関係である。目覚めている時の記憶も同じ原理であろう。夢の生理学のように、夢が記憶による過去の再現にとどまるものであれば、夢による生霊現象は起こらないであろうし、夢で未知の土地を彷徨することもあるまい。夢で未知の土地 を彷徨し、数年後にその地に行って夢と同じ場所に立つことがある。或いは、現在のその状態が、数年前に見た夢と同じであったりする。夢が空間的現象にのみとどまるものであれば、生命原子の遊泳という一語で説明できるが、時空的現象を呈して未来を予知するということは何を意味するのであろうか。
 人は誰でも危急に瀕して一瞬前に何事かを感知することがある。それがたとえ一瞬前であっ ても、体験を越えた一瞬後の出来ごとを予知したことになる。野生の動物にはその確率が大きい。その感知がたとえ一瞬前であっても、未来を予知するという意味においては、十年先を予知するということと同じ原理でなければならない。《人の一生は、すでに出来上がっている青写真を踏むだけである》という意味のことを、レオナルド・ダヴィンチが言っているが、哲人に共通の到達点でもあった。だとすれば生命原子は宇宙を形成している元素として、光年単位の時間の中で、人の一生を感知するぐらいは、人体分子の感覚に比すれば一瞬にも等しいであろう。夢で未来を予知するのは、人体分子の感覚ではなく、生命原子の霊的現象である。
 夢には白黒のものと自然色のものとがある、そして白黒ばかり見る人と、自然色ばかりを見る人とがある。白黒ばかりを見る人が偶然自然色の夢を見ると、目覚めてからの精神状態に異常が起きるともいう。夢が白黒であるということと、自然色であるということとの差は、何を意味しているのであろうか。アイデティカー(直感像的素質者)が瞼で捉える映像は、白黒フィルムの画像のように、黒と白とが現物と反対になっている。直感像的素質者が見る夢はいつでも自然色であるのに、瞼で捉えた直感像がなぜ黒白であるのか。それは、人体の内部で起こっ た映像だからであろうか。だとすれば黒白の夢を見る人は、大脳皮質の中で起こったものであり、自然色の夢を見る人は、大脳皮質の記憶層を突破して、外界を遊泳しながら見ているということがいえる。それ故に、黒白の夢を見る人が自然色の夢を見ると、生命原子の遊泳によって、恰も狐憑きにでもなったように、精神的異常を感じるのではあるまいか。
 夢は一般に睡眠中に見るが、目覚めている時に肉眼で捉えた現実の中へ、夢の画面が割込んで来るのが白昼夢である。大抵は幾山河を越えた遠い所で、今起こりつつある事実であったり、間もなく起こり得る未来的存在であったりする。即ち千里眼である。時には明日の出来事を見ることもあり、十年前に遠方で起こった殺人事件の現場をまざまざと見ることもある。すでに流れ去った過去の事実が甦るということは、宇宙的や社会的流動の青写真が、時空的立体として生物体以前の元素のままで残っているのではあるまいか。激しい怨念は七代祟るというが、現実に六代目まで幽霊が出て、遂にその家が死に絶えた例がある。過去の事実が青写真のままで残っていなければ、そのような奇しき事実はあり得ず、現存する事実の解釈は、生命原子の存在を措いてはあり得ない。幽霊は幽霊の側に能動性があって肉眼で見える。それ故誰の目にも捉えられるが、白昼夢は当人の側に能動性があるために、他の人の目には見えない。幽霊の場合は受身であるから、幽霊を見ながら思考したり喚いたり、人に話しかけたり行動したり出来るが、白昼夢の場合は思考力がなく、自分の存在の現実性を自覚していない。肉眼は現実を見詰めることを忘れて、画面は霊眼によって捉えている。霊眼は即ち大脳皮質の感覚である。その形態は睡眠中に見る自然色の夢と同じであり、明確さにおいては白昼夢の方が現実感がある。しかし、眠っていないので体は目覚めている時と同じく、坐っていたり立っていたり、他の人の目から見ればなんの異常もない。当人は、火の玉が頭上から放出される直前のようにぼんやりとしている。白昼夢から覚めた感じと、睡眠中に夢から覚めた感じとは同じである。ただその現実が睡眠中でなかったことに気がついた時、その異常さに深い感銘を覚える。 火の玉が光線現象であるならば、自昼夢は波動に作用した生命原子の戯らである。