力動と熱量・光線と波動(1975年)

 狐憑きだといって青松で燻られても、その苛苦に堪え抜けば正気に還る。苛苦は生命維持の最低限をも脅かして、体内に残った生命力に増殖の要を強化させる。恰も火事場から逃げ出した躄のように、人は危急に直面すると馬鹿力が出る。つまり生命力は意志によって増殖することが出来るといえよう。空手術・奇術・忍術などはそれを利用して訓練したものである。科学の方法では、いつでもどこででも繰り返しが出来て万人に共通であるという条件であるが、これらの術はいつでもどこででも繰り返しは出来て万人に共通ではない。しかしそのこと自体は存在している。人間が発見した現時点の科学を超越して事実が存在しているということは、未だ科学の至らぬ世界が存在しているという証拠であろう。空手術や奇術や忍術は特定の人にしか出来ないが、それと同じく心霊現象も特定の人にしか体験できない。そこに未知の科学が存在するのである。即ち特殊原子による力動と熱量、そして光線と波動の戯らである。
 空手術や奇術や忍術がたとい特定の人にしかできなくても、いつでもどこででも再現できる。それには意志による精神統一が必要である。精神が統一すると全生命がそこに集中して、物理や化学法則に打ち勝つことができる。つまり生命原子は物理学上に表われる原子に比して異端者なのである。原子異端者は異端者であるが故に少数であり、物理学的原子の多数の前には抗しきれず、それが生物体の死である。《この世は仮の宿なれば》という宗教語は、異端原子の独りごとであり、生物体は死によって科学法則に従属する。かくして異端原子は空間を放浪する。
 精神統一は意志によってなされ、全生命力は精神統一によって体内に集中される。即ち空手術は物体に働いて力動を示し、灼熱に挑む奇術は熱量を示す。忍術による諸々の現象も精神統一によってなされるのである。体外に放電して音波を示し、或いは光波を示す。即ち異端原子が空間に働いた反応現象である。
 精神統一には意志を要し、全生命力を体内に集中させ、意志によって体全体に働くこともあり、一箇所に集中して働くこともある。それに比して人霊、後光、白昼夢などは、意志が働くことによって能力を失う。なぜなら、生命力が意志に働く時、異端原子は思考力に消耗して放出するだけの余剰を失う。故に人霊や後光や白昼夢は、無我の境地に在る時に起こる。ところで後光は、放出の瞬間は無我の境地であっても、放出しつつある刻々の時間は自由自在に思考力が働く。第一図は私の体験である。それは満月の夜であった。

 後光は人頭を中心にして球状に輝く、それが金環状に見えるのは、周辺の輝く部分が重複して見えるからである。従って、前後左右どの方角から見ても眼で捉えるのは金環である。後光を放出している当人の頭は球の中心にあって、周辺の輝きを通して外界の景色に臨む。満月を背にして自分の影を見ると、影は黄金色の環に囲まれて体と共に移動する。飛んでも跳ねても走っても、後光は影と共に動きまわる。影に黄金色の環があるのは光線の反射であろうか。

 空手術の力動、奇術の熱量、そして人霊と後光は光線を示す。幽霊のうち色彩鮮明なものは光線の作用であり、黒雲を塁するのは湿気に作用した雷雲に似ている。古来の霊魂不滅説は体験を通して得た直感であろうが、科学的未知の世界が存在することを暗示している。幽霊は死後の魂を示すだけではなく、生霊として体外に遊泳することもある。それらは光線に作用して肉眼で見えるが、波動によって大脳皮質で捉えたのが自昼夢である。自昼夢は遠方の出来事を見せるので千里眼ともいえる。
 このような心霊現象は、万人誰でも体験することではないので、生理学的にも物理学的にも、未だに究明する糸口すら掴むことができず、大学の研究室などでは既成の科学分野であれかこれかと研究している。体験者にとってはそれらの研究は、とんでもない筋違いのように思えてならない。遺伝学の研究者も、分子レベルで心霊現象の情報関係を究明すべきではないだろうか。