「魔性と神性」中田家悲劇の年譜


1873年9月4日   小領主増田家の三男、萬與門誕生。25歳で中田喜代吉の養嗣子になり、いせを娶る。いせは喜代吉の姪であり、中田家の血統を嗣ぐためであった。
1910年4月13日   神童すみゑは6歳で、知恵熱を出して急死!! いせは嘆き悲しみ、わが弟が孕ませた不義の子シメノを引きとって育てる。

1914年10月   シメノを養女として入籍した。四年間育ててみて、シメノの非人間性に驚き、萬與門は入籍を拒んだが、いせの情愛に屈したのである。シメノの殺意を実感した時、その入籍を後悔した。そしてシメノの完全犯罪によって惨死するのである。










1915年5月12日  大天才豊一誕生、それを祝って七日七夜の大宴会!! そして霧雨の夜中に天然色の幽霊が出た。夜目にも著き絶世の美女であった。 その年、シメノは7歳、その魔性本能を世人は恐れた。女中は残忍ないじめに泣いた。無実の罪を着せて責め苛み、人の苦渋を楽しむのである。シメノが盗んだ大金が、女中の風呂敷包の中にあった。シメノに折檻されて女中は入水自殺を図った。

1919年1月27日  神童ムメノ誕生。...シメノは4歳になってもしっこ、うんこの垂れ流しであつたが、いせが産んだ子はみんな、7ケ月で襁褓を外した。余のことは喋らなくても、しっこ、うんこは告げたのである。そして生後10ケ月で、ムメノは新哲学の萌芽を得た。『一人生まれて一人で死ぬ。親といえども私を知る人はいない。一人で生きて行こう』と。その悧発さをシメノは憎んで虐待する。虐待しても泣かないばかりか、反って献身的に慕ってくる。それをシメノは横柄、傲慢としか感じなかった。




1927年春  豊一は小学校五年生から飛級で、東京帝大までの進学を県費で保証されることになった。家族の喜びも束の間!! シメノの妨害によって断念した。喜代吉は夢破れて自害した。

1929年7月18日  ムメノは裏門に出て、冴え渡る月光の下で幽霊見た。炭色で男子の七部身であった。豊一は仰天して逃げ去った。その年、萬與門は延40坪の住宅を建てて、シメノを家付きで嫁がせた。そして秋、いせは中風で泣き死んだ。










1930年5月30日   シメノは婚家中田浅造の戸籍に入籍した。浅造は喜代吉の弟である。屯田兵に北海道へ行ったが、失敗して裸一貫で帰り、連れていた庶子義男に嫁がせたのである。これにて萬與門との養子縁組は解消されたのであるが、義男に生活力がないために、食生活の万事を提供し続けた。
 浅造の死後、義男の溺愛にシメノは益々増長して、停まる術もなく狂暴化していった。幼いムメノの台所を、荒らし捲るのである。味噌桶に黒カビを入れて掻き回わし、沢庵は底から引繰り返して腐らせては、ムメノがやったのだと責め苛んだ。ムメノが支度する毎日の献立てを、通学の留守中に来て、盗んでいくのが常習であった。
 心痛と過労に、痩せ細ったムメノの背中に、子供を負わせて通学させ、『ムメノは勉強が厭だから、勝手に子供を連れ出して、こっちこそ大迷惑や』と嘘を言う。如何にムメノを陥入れても萬與門の冷静さが腹立たしいのである。












1932年7月   ムメノは朝顔の生態を見て、悟りの境地に立った。涙が止めどもなく流れた。宇宙の摂理を実感したのである。校長の推薦で、高等女学校に編入することになったが、シメノの妨害で断念!!独学することにした。

1936年1月8日  シメノは卓男を出産した。その日、豊一は大阪歩兵第八聯隊に入営した。豊一が去ると、シメノは萬與門を蔑んだ。自分ら一家五人を無条件で養い続ける人の汗を『阿呆の見本』としか感じないのである。だからといって断ち切れば、その反撃こそ想像を絶する。うぶな少女を傷物にして抹殺するのは馴れた手口であった。ムメノを色魔だと言い触らし、強姦の手引きをして噂を広げた。





1937年春  豊一は入営して一年で、特別昇進伍長勤務上等兵になり、上司から進学を勧められて帰省した。


1937年7月12日   支那事変勃発。豊一は軍の命により、進学した。どうせ進学するのならとパイロットを選んだ。


1939年4月  豊一は熊谷陸軍航空士官学校に入学した。三年制の士官学校を特別昇進で、一年半で卒業して、豊岡陸軍航空士官学校の助教授に就任することが決まっていた。








1939年4月4日  ムメノは20歳で大輪の後光が射した。黄金に輝く光線が、ムメノの額から放射されたのである。逃げても飛んでも走っても、後光はムメノから離れなかった。













1940年4月   豊一は助教授で就任した。25歳であった。その年、映画《燃ゆる大空》に出演して墜落していく敵機の危険な操縦を一人で演じた。当時、仁科芳雄理学博士は岡崎の理化学研究所で原爆の研究をしていたが、豊一は選ばれてその研究に協力していた。豊岡陸軍航空士官学校は所沢だったから豊一は中田機で岡崎に通っていたのである。

1941年3月28日   豊一は帰省してムメノにそのことを極秘で教えた。『原爆は人を殺す為の兵器ではない。兵器にされては困るから、軍には絶対に秘密なのだ。これを作って太平洋の無人島で実験すれば、抑止力になって戦争は終る。早く終わらせないと第二次世界戦争になる。世界は今、その方向に動いている。それを阻止するには、これしかないのだ』と。

1941年4月  静男の百日咳がムメノに移り、結核性乾性肋膜炎を発病した。シメノは、ムメノを死なせる手段として、我が弟の結核菌を故意にムメノに伝染していたからである。その弟は一年前に死んだ。
 周辺の人は皆それを案じてシメノを恐れ、ムメノの健康を気遣っていた矢先である。萬與門は生家の兄や近所に住む弟に誘われて、四国霊場へ平癒祈願の巡礼に出た。その留守にムメノは監禁された。
 シメノは入院させたと言い触らして、餓死させようと図ったが、弟の家族が救出した。利七は萬與門の弟で、家族はムメノの看病を引き受けていたのである。

1941年12月14日  豊は戦況観察に出て、マレー半島で乱気流の目に襲われて、機体諸共木端微塵!!戦死の報が来たのは12月25日であった。シメノは本家乗取に暗躍し、悪鬼と化した。豊一の死を悼む余裕さえ与えなかった。

1942年1月19日  ムメノは難を逃れて上京した。豊岡陸軍航空士官学校に残されていた荷物を確認するためであった。それを機に、親交のあった作家、井上友一郎に身の振り方を相談するためでもあった。
 彼はムメノを生得的哲人と見て、小学校卒のムメノに、男子大学の入試を勧めた。
そして、日本大学法文学部芸術学科に合格した。















 《これにて第一巻は終る。以下、第二巻に続く》






















1942年4月1日  ムメノは日本大学
法文学部芸術学科に入学した。親族一同はシメノの飽くなき妨害を、四苦八苦で制圧しての入学であった。
 萬與門は親族会議の席で、土下座して嘆願した。『ムメノを大学にやらしてくれ!! 頼む』と。それに答えて親族は言った。『親は我が子を大学に入れたい。子はすでに合格している。それを妨害しているのは、どこの誰だ!!
』と、声を荒げる者もいた。









1942年夏  ムメノは、夏休みに帰省した。その間、学資の送金がなかった。シメノは萬與門を騙して、送金しているかのように見せかけて実印と貯金通帳を盗み去り、地元の金融機関には、『年寄りの一人暮らしは物騒だから分家義男が管理しています』と申し出ていた。ムメノが出した手紙は全て、シメノが横領していた。それに気付いたムメノは、伯父や従兄に手紙を出した。康夫に借金した事を知らせたのである。そして康を連れて帰省した。 康夫は返金された60円で外套を誂えて喜び、萬與門の雄々しさに男惚れして帰った。後は親族会議である。義男を呼び出して、男同士の対決であった。シメノは庇って半狂乱!! ムメノは申し出た。『本家の財産がそんなに欲しいのなら、卓男を父の養子にしなさい』と。そしてムメノは、親族会の猛反対を押し切った。するとシメノは摺りかえた。『ムメノは親族に勘当された。極道娘は撲殺しても罪にはならぬ』と言い触らし、兇器を掴んで押しかけた。それを救ったのは萬與門が流した武将の涙であった。
 その後、萬與門はムメノに言った。『あの時、大学にやっておいてよかった。ムメノは欲がないから、何を遣ってもシメノに取られてしまう。昔からそうだった。しかし身についた学は誰にも取られぬ』と。

1943年1月1日  ムメノは教授会の勧めで、広島の名門中田康夫と結婚した。そして九月、神童安麿を出産、十月は軍の命に依り、学徒出陣!!

      日本大学学監 飯塚友一郎教授とご令室くに様
    萬與門は飯塚教授をムメノの親代わりと信じて安堵した。


1944年1月27日   ムメノは夜半に目覚めて、新哲学の端緒を展いた。日本大学学監、飯塚友一郎教授はそれを高く評価して師弟の縁を結び、その後恩師逝去まで四十年間続く。

 日本大学に芸術学科を創設した松原寛文学博士は哲学者であったから、ムメノを高く評価して卒業記念写真に自ら参加した。

1944年8月31日   大学の卒業を一ケ月後に控えたムメノを、萬與門は墓地に呼んだ。
『どんなことがあっても淡路島には帰るでない!!シメノに殺される。日本中のどこで暮らしてもよい。幸せになってくれ。他郷で一人、苦労も多いだろうが、シメノほどの鬼はおるまい。儂のことは心配するでない。兄弟がいる。甥もおる。まさかシメノとて、世話になっている養い親まで殺しはすまい』と。言いつつ溢れる涙は、惨殺されることを予知していたのであろう。『ここに戻って死なせてくれ』といって、生家の兄の前で泣いたという。

1944年9月25日   ムメノは日本大学法文学部芸術学科を卒業した。その後、慶応義塾大学通信教育で哲学を専攻し、『生命哲学は武器よりも強し』と確信した。

1945年2月22日   萬與門は餓死した。医者は買収された。
(戦後、この医院は死滅した)親族は恐れて口を噤んだ。今更騒いでシメノを死刑にしても、萬與門の命は還らぬ。いっそこの際、シメノに恩を売って謝罪させれば、ムメノは淡路島に帰られよう。というのが親族会議の結論であった。そうと決れば、この惨死体をムメノには見せられぬといって十時間後に埋葬した。

1945年5月   フィリッピンの激戦で、康夫の部隊はレガスピー島で玉砕!!その頃安麿は、麻疹の余病で腎炎を患い、康夫の生家にいた。折しも飯塚教授の紹介で、朝日新聞社に入社を勧められたが、子を思う母心が先に立って入社を断わった。もしも入社していたなら原爆に遭っていた。萬與門と康夫の霊が救ったのかもしれない。

1945年7月29日  卓男の代理人として、シメノは裁判所に出頭した。養父の死によって、養子縁組解消の宣告であった。シメノはそれを役場に届けずに、敢えて怠って20年を経て、不在地主の問題に乗じて、『家督相続の記入漏れ』として、町長を買収した。








1947年4月   ムメノは手際よく、伊丹に借家を得て独立した。雑誌記者では子連れで出勤は出来ず、一旦は教会に預けたが、運良く宝塚中学校に採用され、校内の幼稚園に安麿は入園した。毎日を子連れで通勤し、配給日は安麿が休園して、幼い体でリュックを背負って主婦達の列に並んでいた。積木遊びで文字を憶えて回覧板を読み、二桁を暗算で釣勘定してつり銭を求めた。配給の野菜を炭火で煮て、夕食の支度をした。自分の衣類は銭湯の片隅で洗ってきた。服も帽子もムメノの手編みであった。足袋はムメノの手作りであった。安麿は中学校の教員室に入ると、先ず足袋を脱いで、隣席の椅子の上に置いて幼稚園に走った。隣席は善男先生であった。『おい。足袋を履かんかいな』といえば言下に安麿は『火鉢で当るからええ。足袋は履いたら破れる』と言う。善男は言った。『偉人伝で神童がいることは知っていたが現実に見たのは今が初めてだ。この子の父親になりたい』と言って求婚した。




1948年3月   賀川豊彦の側近だという青年がムメノを訪ねてリストの偉大さについて話していた。突然!!彼は座布団を押しやって平伏した。『貴女はイエス様!!』と絶叫して逃げ帰った。対座しているムメノの上半身が、頭を中心にして黄金色の光に包まれたのである。後光であった。

1949年12月10日  ムメノは善男と再婚した。安麿に命をかけてれるなら誰でもよかっのである。善男はその後、71歳で肝臓癌で逝去するまで、安麿の人間性を敬愛し続けた。








1950年5月   ムメノはアメリカ博に、シメノらー家五人を招待した。父親がシメノに、惨殺されていたことを知らなかったのである。シメノは淡路島に帰って、嘘偽りを言い触らした。『ムメノは教師などしていなかった。大学卒は嘘であった。小学校出が大学に入れる筈がない。男女七歳で席を同じゅうせずといって、男女共学の大学なんか日本中のどこにもない。ムメノは親を騙して大金持ち出して、卒業証書は金と色気で入手したのだ』と。








1951年3月   ムメノは兵教委に呼び出された。人事課の係長平川は言った。『これほどの美人なら、大金積まれりゃ卒業証書ぐらい書きたくなるぜ。盗人猛々しいとはこのことじゃ。女子大ぐらいにしておけばよいのに、馬鹿な奴じゃ。文部省は大学に男女共学を許可していません!! 君は男狂いして、親族から勘当されているそうじゃないか。阪神ブロックでは、君の教育力を評価しているらしいが、そんなのは教育力ではない!! 色気よ色気!!ムメノはその場で退職した。シメノの手の届かぬ所へ逃げたかった。《文部省が大学に、男女共学を許可したのは大正10年》ムメノは30年後に兵教委で古い経歴を見た。大学卒を消して、聴講生と記してあった。それを抗議すると、賄賂を強制された。




     










1953年3月26日  ムメノは広島県農業開拓地に移住した。善は隣接の中学校に就任した。彼も学徒出陣でシンガポールで終戦になり、運良く復員して、高等学校英語科教諭2級の免許証を持っていた。
 安麿は9歳ヒナコは生後6ヶ月の春であった。安麿は喜んで、小高い丘の上で叫んでいた。『おうい!!おうい!!あの山もこの丘も。小川も水も谷川も、家も屋敷もこの土も、みんなみんな、僕の物やぞう!!
 生まれ乍らにわが家はなく、借家には住んでも所詮は他人のものであった
ようやく今茲で地に付いた生活が得られたのである。安麿はその歓喜を、天に向って叫んだのである。そして百姓を愛した。開墾もした。恐るべき剛力を発揮した。身長150cmの小柄な中学生時代から、米俵18貫匁(67.5kg)を自力で担ぎ上げて、坂道を駆け下りて行ったのである。
















1956年2月22日  ムメノは白昼夢に、父萬與門の餓死を見た。11年目の命日であった。この日を以って『遺棄致死罪』は時効である。ムメノは家庭裁判所に申請した。調定委員室で、シメノは大言壮語した。『年寄り嫌いやから殺した。嫌いな者を殺してなぜ悪い!!はよう死んでくれてさっぱりしたわ。年寄りの命いうもんは、食わしさえせにゃ脆いもんじゃと聞いたが、ほんまだったわ』と嘲笑した。
 委員長斉藤弁護士は、声を振るわせ、拳を握りしめて怒鳴った。『もう半年早かったら!!尊属殺人で死刑に出来たのに!!!!』と。
 それでも、シメノは屈しなかった。『うかうかしとったら、財産はみな、ムメノ名義になってしまう。はよう死んで貰わんことにゃ』といって、罪の意識はなかった。しかし、卓男は養嗣子ではない。養父が死ねば、養子縁組は解消される。シメノはそれを知らなかった。萬與門は知っていた。だから雄々しく殺意に甘んじた。ムメノは帰郷できなくても、田本家の嫡女であるということを....調停委員長は言った『君は書ける。自叙伝を書いて社会的制裁を受けさせろ』と。それが「魔性と神性』である。

1960年5月8日 ムメノは州彦を出産した。規定の開墾面積二町五反歩を完了して、規則通りの4万㎡を農林省から購入した。住宅は延320㎡を造作し乍ら完成した。











1964年以降   安麿は大学で量子力学を専攻して、生命哲学の構築に偉大な貢献を成した。と同時に、生命力の特殊性を知り、第二次的物理学が存在することを予言した。








1971年  米作の生産調整で農業を止め、生命哲学の研究に没頭する。

1975年1月27日  『生命哲学原理論』を自費出版した。飯塚友一郎教授は涙を流して喜んだ。
『君を見込んでよかった。想像していた通りの偉業を成し遂げてくれた。嬉しいよ。三回読んで、その高遠さに驚いた。創始哲学はいつの時代にも、難解を極めるものです。21世紀の世界は、この生命哲学がリードします。創始者の自叙伝があれば、その生き方を知ることによって、研究の助けになります。自伝小説を書きなさい』
といった。








1983年4月   飯塚友一郎教授は89歳でご逝去!! ご家族には遺言がなく、ムメノに遺した尊いアドバイスだけが遺言であった。自叙伝の原稿は一応完成していたが、出版には至らず、ムメノはそのことだけが心残りであった。









1986年1月  旧師松原博一教授(文学博士)の紹介で、自叙伝『魔性と神性』を出版した。更に後編、終編と出版を続ける中で、生命哲学の集大成『悲劇の原理』を出版した。
 老いし旧師達に歓迎され、母校日大の星と賞讃された。祝賀会には招待され後輩たちと睦み合った。

1987年   早稲田大学はムメノの著書全てを、学術研究書として『永久保存の 蔵書』に指定した。飯塚友一郎教授は坪内逍遥の後継者であったから、ムメノが創始した生命哲学については、既に教授会で評価されていたのであろう。『博士なんか足元にもよりませんよ』とムメノに言った。




















     





1988年7月11日   文学博士松原博一教授逝く。日大に芸術学科を創設した松原寛教授の甥である。ムメノとは兄と妹のように睦まじかった。出版社を紹介してくれたのは彼であった。
    












 その頃、安麿は茅ヶ崎に住み、10年後には日刊建設工業新聞社の重役になった。その年、未だ54歳であった。実力は高く評価された。
















 ヒナコは二児の母になっていた。京都西陣の名門に嫁いだが、その前年に枕辺に立った美女の幽霊は、ヒナコの不幸を予告したのである。婚家一族に親愛され乍ら、夫がわが幼児を虐待するために、子供を連れ出して離婚したのである。夫からの扶養は無く、広告会社に勤めた。










1990年12月17日  午後4時であった。ムメノは府中駅で下車して構内に入った。老婆が一人、椅子に向って俯いて、手荷物の整理をしていた。ムメノはその後ろを通った。とたんに老婆は合掌して、ムメノに向って読経を始めた。ムメノは驚いた。『お婆さん、私は人間よ』といえば老婆は笑顔になった。
『ありがたやありがたや。首無地蔵さんに願掛けて今日は満願の日です。私の家は直ぐそこだから駅には用がないのに足がこちらへ向いたのです。首無地蔵さんが貴女に引き合わせてくれたのであろう。貴女様が私の後ろを通った途端に体が急に軽くなりました。足腰の痛みが治りました。見れば貴女様は、お顔から光が出て金色に輝いていたのです。ありがたやありがたや』といって再び入念に合掌した。後光を放射したのである。
 ムメノは縷々、暗夜の道が明るくなるのを体験していたが、それが自分の額から放射する後光であることに気付かなかったのである。その放射は、生命力の余剰であって、それを吸収した人は元気になり、神経性の患部は不思議にも治癒する。府中駅の老婆はそうであった。

1992年10月9日   山崎玲から親書が来た。彼はTBSのプロデューサー35歳であった。東京大学教養学部基礎科学科出身である。『生命哲学原理論』を読んで感動し、親交を求めて来たのである。人類悲劇の原理について文通が続いた。

1993年6月10日   善男は肝臓癌で逝去した。71歳であった。『こんな幸せな人生があろうとは思わなかった。有りがとうよ』と、感謝の詞を残して安らかに死んだ。その秋、彼岸の明けの夜半、吉弘は炭色の幽霊を見た。昔、ムメノが兄と二人で見たのと同じであった。胸苦しくなって目を醒まし、半身を起こすと目の前に、七分身の男が立っていた。膝上だけであった。吉弘に向って頭を下げて、流れるように隣室に消えた。後を追ったが隣室には母ヒナコの寝息だけであった。

1993年12月4日    街にネオンが点る頃、ムメノは御徒町で下車して改札口を出ると、右側から入ってきた中年婦人が駈け寄って来た。『貴女は素晴しい!!黄金の光に輝いていますよ』といわれて笑顔を返したが、不図気がついて婦人を呼び止めた。『後光でしょう。何処から出ていましたか。教えて下さい。私には分からないのです』婦人は我がの額を指で示した。それは仏像に印した第三の目であった。

1999年8月末    山崎玲の依頼でレポーターがムメノを訪ねた。多くのファンがそれぞれの時間で訪ねて来ては、ムメノと一緒に写真を撮り、ビデオに納まった。










 そして9月1日、淡路島でシメノを取材するために駅へ向かった。切符売りの女性はムメノを見るなり言った。『巨大な門の有る家に行くんですか。物凄く大きな門よ』と。彼女は瞬時に白昼夢を見たのである。それは萬與門の実家、増田本家である。曽て萬與門は惨死を予知して、実家に戻って死なせてくれと言ったが、死後は実家の仏壇にいるのであろうか。ムメノが切符を買ってホームに出ると、女性は物に憑かれたように飛び出してきた。『連れていって!!お父さんを連れていって!! 私に取り憑いている!!』と言われて、ムメノは深く肯いた。途端に女性は正気に返った。萬與門はシメノの取材を喜んで、レポーターを迎えに来たのである。 




シメノは既に91歳、今の心境をビデオに納めた。『私は養女ですが、生まれて直ぐに貰われて来て、随分苦労しました。ここへ来てから生まれた子は、みな賢い子でなァ。養父は厳しい人でしたが、感謝しています。今が一番幸せです』と。これが本音なら、財産を譲ったムメノにこそ謝罪すべきであろう。増田一族は怒った。『感謝しなければならない養父をなぜ殺したか!! 真実を知らぬ者は、シメノの嘘偽りに騙されて....』正に世人は、ムメノは勘当されたから、シメノが仕方なく本家を相続したのだと信じていた。その嘘を正当化させるために、本家の除籍謄本を偽造していた。勝手に消したり、記入したり、それを幇助した町長の罪こそ重大である。


シメノはその一方で次男卓男の抹殺を企てていた。嫡男静男を操り出刃包丁で卓男に傷害を負わせて追い出した。親兄弟から睨まれた卓男は、妙に正義感にしがみ付いていた。卓男は言った。『小母ちゃんが僕に、財産をくれたからこそ、今の僕がいる。あれがなかったら、僕は今頃、どうなっていたことやら』といって、ムメノに200万円送った。養父の死によって、養子縁組が解消されたことを知っているのである。
















その頃、ムメノの次男州彦は、岡山大学大学院博士課程を修了して、薬学部の助手になり、医学部の助手に転任していた。京都ではヒナコの次男和万は、立命館大学を目指して高校に進学!!長男吉弘はその翌年、京都大学に入学した。兄弟は共に、母を助けて家事を分担し、夏には祖母が住む山里に来て、広大な檜林の草刈りをした。
 ムメノは80歳を過ぎて尚、大鋸を持って林に入り、不用な木を伐採したり、高所に登って杉や檜の枝を切ったりするから、二人の孫はそれをさせまいとして、力の限り働くのである。親には言い辛いことでも祖母には話した。思えば幼いころ、父親に虐待されるその苦衷を、涙乍らに話したのは吉弘であった。『なぜお母さんに言わなかったのよ』といえば、二人はいった。『お母さんに知れたら、離婚や、僕ら二人は死ぬしかない』と。そして和万はいった。『兄ちゃんは僕を庇って、お父さんに立てつくから、よけいに酷くやられるんや』と。しかし、原因は他にあった。幼いくせに、父親を凌ぐ計算力である。積木遊びで文字を憶え、二歳半で童話の本を読んでいた。離婚の際、吉弘は母方の姓を選び、和万は岡本のままとなった。






2000年3月21日  吉弘は夜半に、炭色の幽霊を見た。京大後期の入試を受けて、合格発表の数日前であった。胸苦しさに目を開けると、寝ている上の空間を、黒雲のように流れていった。合格の知らせであったのか?!!



2000年5月17日  ムメノの館にファンが訪ねて来た。それが初対面である。西宮ひかり31歳であった。ひかりは屋敷下で乗用車から降りた。途端に数多の視線を感じた。奇妙に思った。案内されてリビングのテーブルにつき、ムメノは台所に向かった。不図、目についたのは白衣の男性であった。ムメノの背後を、付かず離れず流れるように台所に入っていった。漆黒の断髪が豊かに肩迄垂れていた。オボコである。程なくムメノは、茶菓の盆を持って出て来た。ひかりはいった。『誰かおられるんですか』と。ムメノは微笑んだ。『貴女はオボコを見たのよ。昼は白衣なのね。夜は炭色なのよ』と。いずれにしても七分身の男子である。歩くでもなくスーッと移動する。

2000年10月7日  山崎玲の部下、小野勝也が訪ねてきた。21時半に着いて、夕食を済ませたら22時頃であった。小野は震え出した。ムメノは寒いのかと思って防寒着を着せてやった。彼はその時、炭色の幽霊を見たのである。玄関の間から応接間へ、炭色七分身の断髪男が、影のように流れて行った。正に、スーッとである。11月に入ってから、小野はそのことを電話して来た。要はそのことだけではなく、ムメノとFAX通信が始まった七月下旬、夜明け前に小野の寝室へ、窓からスーッと、黒雲のようなものが入って来た。今にして思えば、炭色の幽霊であったのだ。東京のアパートまで迎えに来ていたのだ。と思えば又もゾーッと来た。寒かったのではない。怖くて震えていたのである。

2000年12月   山崎玲の努力で、インターネットホームページに生命哲学が入力された。20世紀の世紀末に、世界平和の礎として、生命哲学を世界に発信したのである。それを見た安麿は、若き日の自分の成果でもあり、母親ムメノにパソコン器具を送った。受け取ったムメノは、大きな荷物が二つ、何が入っているのかと思った。29日の夜、安麿が帰省して設置し、大晦に引き揚げるまで安麿は丹念に教えた。大晦には京都からヒナコが来て、指導を引き継いだ。80歳を過ぎての手習いも、僅か一日で、パソコンの基本を体得した。元旦には、メール送信を楽しみ、自分のホームページを点検した。間もなく82歳である。ヒナコはいった。『応接間から台所に至る部屋部屋に、強い霊力を感じる。仏間や居間にも、霊気が漂っている。』と。その霊気こそ、生体を失った生命力である。ムメノの元気は、その霊気に包まれているからであろう。脳細胞の衰えを知らぬのも、霊気の故であろうか。