過去の巻頭メッセージ

#2親子の愛について(2001年7月21日)

愛には求愛と絶対愛があります。
親子の情愛は絶対愛でなければ子は育ちません。
子は親を選ぶことが出来ないのです。
必然的に生まれ来て、愛がなければ死にます。
育てるということは自立できるように導いてやることです。

大正時代に女性が歌っていた歌詞に
「私は何ゆえ生まれ来た。生まれて私は何をする。
ただ、子の養育するならば、鳥や獣と同じくよ」と。
その後一世紀を経た昨今、子育てに悩む母親が多くなりました。

わが腹で育った子が、何故手に負えないのか、
その根底にあるのが〈求愛〉だからです。
親がわが子に〈求める〉から、子もまた親に求愛します。
求愛同士で睦み合えば、過保護と甘えの合体ですから、
両者は共に自立できず、そのバランスが崩れたならば犯罪心理が芽生えます。

子が親を、着古しのように扱うのは、純粋な絶対愛を感じないからです。
求愛の中で生い立った子は、絶対愛の和を知らず、
求め合いのバランスによってしか和を求め得ない。
バランスが崩れると憎悪と化す。
刑法はここに立脚して、犯罪の動機を環境に求めるのです。
これは大変な間違いです。
加害者の犯罪動機は、犯罪に走らせる求愛です。
加害者に巣食った求愛感覚です。

子育てとは、親の純粋な絶対愛によって成り立つのです。
人の一生は限られていますが、遺伝子は子によって永遠です。
連綿と受け継がれていき伝統がつくられるのです。
自分の「生」が伝統の一齣であると気付けば
求愛の淋しさなどに陥らぬ真の奉仕精神(絶対愛)が生まれるのです。
まず問われるのは親の自立です。


#1 生命哲学から見た犯罪心理 (2001年7月4日)
《大阪》池田小の惨劇に思う

『刑法』では、何ごとによらず犯罪を起こした《動機》を
《環境》に求めるが、動機は環境にあるのではない!!

如何に恵まれた環境にあっても、その人間性が
凶悪であれば犯罪は立ち処に起きる。
如何に苦難な環境にあっても、本能的に神性な人は
その苦難によって反って人間性が研かれて
他者の苦境に同情する。
その心が《親和の絆》となって楽しい人生を築き、
住み良い社会を構築するのである。

《包丁》を見れば、善良な人は台所を連想し
家族を喜ばせる食事を思う。
凶悪な人は殺傷を連想して、他者の苦悶に
喜悦が湧く。即ち魔性本能の特異性である。
《動機》は正にこの内蔵する魔性本能にあるのであって
環境に存するのではない!!

加害者宅間守は《精神病者》になりすまして
罪を逃れようとしたが《精神病者》は即魔性ではない!!
精神病になったことで衣食住を忘れて反って
神性な感情を出す人が多い!!

《発狂》とは、人間生活の基本が狂うことである。
狂えば損得も善悪もわからない。
性得的に神性であれば発狂によって益々神性になり、
善行に徹してバカげた損をする。
性得的に魔性であれば発狂によって凶悪になる。
従って、発狂による犯罪は《性得的魔性》であるから
人としての《人権》は無い!!

《人権》とは、平和共存の義務を果してのみ主張できる!!
他者の人権を殺傷すれば人権を失う。

《自由》とは、責任がとれる範囲だけに許される。
その範囲を越えては放任である。
《プライバシー》を主張する前に、
他者に見聞きされては困るようなことは言動するでない!!

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