生命哲学原理論 序にかえて(1975年)
私が感覚の世界に目覚めたのは、ようやく乳歯が生え初めたころであった。凩の吹く夕べの田圃で母は麦蒔きをしていた。私は養女の背に負われて、ねんねこ半纏の衿元からそれを見た。養女がその田圃まで私を背負って来る間、私はブーブーと口を鳴らしていた。養女はそれを、泣いて困るといって母に告げた。屈辱に似た驚きが私を襲った。私は泣いていないのにと思った。口をブーブー鳴らしていると、うつらうつらと眠気を誘うような、潤いのある安定感があった。私は満足していたのである。泣いて何ものかを求めていたのではない。それなのに、養女はそれを泣いていると告げ、母はそれを認めて何ごとかを養女に言っていた。その時、私は、自分の感覚は私一人のものであって、他人には決して通じないのだということを知ったのである。私は一月二十七日生れだから、その年の秋の暮れは生後十ヵ月である。
私は無口であった。言葉を憶えようとはしなかった。言葉で自分の意志を伝えても、相手が正確に理解してくれるとは思わなかった。常に受け身で、相手の言動からその心情を探ろうと努めた。感情を表現することの空しさを知って、無表情な幼児になった。大人達はそんな私を珍しがって、私を笑わせようとして、いろいろなことをした。養女や兄は私を怒らせようとして、いろいろと邪魔だてをした。怒ってやらないと気の毒だと思った。笑ってやらないとすまないと思った。そして私は、社交のために、心にもない笑顔をつくり、ベタベタと甘えてみせた。ほんとうに泣いたことが三度あった。養女が私を泣かせようとして人形の顔を踏み潰した時である。人形の死を悼んで、私は身も世もなく泣いた。両親はそんな私を見て、また買ってやるといって慰めてくれた。その慰めが反って私を悲しませた。私は孤独であった。私の感覚を理解してくれる人はどこにもいなかった。人形は金で買えるが、この人形の無残な死を取り消すことはできない。《ものの憐れ》が幼い胸に芽生えていたのである。同じその頃、三毛猫が迷って来て私に懐いていた。二日目に野良着姿の青年がやって来て、うちの猫だといって連れて帰った。その帰り際に三毛猫は青年を嫌って、その腕から二度も三度も逃げ出した。青年は猫の首を縄で括って無理矢理に連れて帰った。私は只泣いた。三毛猫が憐れでならなかった。両親はその時も、私を慰めて、余所で三毛猫を貰って来てやるといった。私は三毛猫が欲しいのではない。強引に連れて往かれた三毛猫の心情が隣れでならなかったのである。私の涙は求愛感覚ではなく、絶対愛感覚であった。しかし、両親はそれを、求愛だと思って、私にそれを与えることでことが済むと思ったらしい。
一般社会の誰もがそう思ったであろう。私はそれを否定しなかった。相手の考え方を素直に許して、自分の感覚はそのままひっそりと大切にしていた。
十四歳の七月、私は朝顔の生態を見て、その時はじめて、はっきりと《ものの憐れ》を全身に感じた。涙が止めどもなく流れた。小学校を出てから数年間、農業を手伝いながら村人に接したが、千差万別の人間性に、一貫した感覚の相反する両極が存在することを知った。しかし、それが学問であるということには気付かなかった。大学を出ても学問を知らぬ人間が多い昨今、小学校を出て学問に到達しながら、それが学問であることを知らなかったのである。哲学する術を知らなかったのである。昭和十七年一月十九日に私は東京へ行き、作家井上友一郎氏に会った。この出会いがもとで、私はその年の春、日本大学に入学した。私の悩みに答えてくれるのは大学だけだといわれたからである。文芸思想や哲学の講義は、私の感覚を乳幼児期に引き戻した。二十三年間悩み続けた孤独の世界が、哲学自体だったのである。カントがいうように《哲学は学び得るものであるのではない》のである。生得的な感覚がその必然性として、純客観的に働いて捻出するものである。
しかして大学とは、学問の方法を学び得る機関である。最近、学校教育が氾濫して、学問を知らない大学出が多い。学歴に価値があって学問自体は問われない。学歴は生活力に換算され、学問的価値よりも優先される。教育行政はこの非を糾弾せず、現場の教師は学歴至上主義に拍車をかけている。生命哲学は人間の感覚を分析して、教育のいかにあるべきかを体系づけるものである。先哲も宗教も、共に人間教育の理想を説いているが、理想に到達し得ないところの原因を本能に求め得なかった。宗教は霊魂を説き、先哲は心理を説くが、この接点に本能を説いた文献がない。霊魂は即ち、第二物理学の存在を暗示し、生命力は知力と体力に働いて、その肉体を養い育てる。先哲がいう心理状態とは、感覚本能と理性に操られた二次的現象である。生命哲学はこれら先哲と宗教を包含して、その翼下に解明した人間性の分析革命である。
私には霊能の遺伝があって、いろいろな心霊現象を何度も体験した。遺伝したのは生命力の側ではなく、遺伝質である。感覚は細胞の生化学反応であって、そこに生命力が作用して、感覚現象がおこる。心霊現象とは即ち、生体から分離した第二物理学的エネルギー現象である。第二物理学的エネルギーが、生化学的要素と条件を操って生体細胞を形成し、生物としての営みを為す時、それは生命力である。生体細胞は第二物理学的エネルギーの宿であり、細胞の生化学反応に方向づけられて、その力量を発揮する。人間の性格は、感覚本能に表現される生化学反応と、そこに働く生命力の強弱を意味する。斯くして知能とは、脳細胞に働く生命力のカ量である。体力に働きすぎると知力は鈍り、知力に働きすぎると、体力が消耗して病気になり易い。先哲や宗教は、感覚本能と生命力のからくりに、より高き方向づけを示したものである。従って、これを教育の方途としなければならないが、感覚本能と生命力が人それぞれに違うのであるから、その違いを個々に認めた上で、個々に相応しい教育をしなければならない。その違い方の尺度を示したのが生命哲学である。現在の教育は、その違い方の尺度を間違えている。その結果が学歴至上主義と学力偏重を産み、口では平和を唱えながら、摂理を侵して価値判断の尺度に戦々競々としている。平和とは即ち、力の均衡と生存競争によって保たれるのではなく、摂理を重んじて共存共栄することである。
今後いつの世にか、第二物理学を発見し、アミノ酸の研究も更に進んで、脳細胞の生化学反応が感覚現象として解明できるようになれば、生命科学と生命哲学が一体となって、世界平和のいしずえを築くであろう。その日のために、私が生涯をかけて得た生命哲学を、微力ながら後世に遺しておく。以上。
中田ムメノ
この書をお読み下さった方は、お手数とは存じますが、御感想をお寄せ下さい。それに対する回答を添えて、書翰集をつくります。
------------------------------------------------