──のび太、おまえは幸せになれ。これは祈りだ。おまえは誰がなんといっても幸せになってくれなきゃ困る。のび太のような男の子が幸せなおとなになることこそが、ニッポンの教育や社会が目指した理想だったんだから。
(重松清「ジャイアンの黄金時代」(『ぼく、ドラえもん』第8号)より)
『ドラえもん』が小学館の学習雑誌で連載を開始してから、すでに35年の時が流れている。この間にドラえもんはテレビアニメにも進出し映画も毎年封切られて、日本を代表するキャラクターにまで成長した。1996年に原作者の藤子・F・不二雄先生(以下「F先生」)が亡くなられてからも、その人気は決して衰えていない。
小生自身、親に初めて買ってもらったマンガは『ドラえもん』であり、それをぼろぼろになるまで繰返して読んで、ドラえもんがひみつ道具を使って繰り広げる夢の世界に想像力を遊ばせたものである。そして大人になってみると、ドラえもんの話の数々に込められた、大人の世界にも通用するメッセージ性や、さらにF先生の人間へのまなざしにあらためて気づかされるようになった。しかし35年の時を経てみると、この間にドラえもんをとりまく世界はどのように変化したのか、F先生が『ドラえもん』に託して訴えようとしたものは何だったのか、そしてそれはどれだけ実現したのか、あらためて考えざるを得ない。ここではまず、タイムマシンでドラえもんが生れた時代はどのような時代だったのかを振り返ってみたい。
ドラえもんの連載が開始されたのは『小学一年生』をはじめとする小学館の学年誌6誌の1970年1月号、実際に書店に出回ったのは1969年12月である。この1969年の最大のトピックスは、やはりアポロ11号の月面到達であろう。F先生もSFファンの一人として、この出来事に大きな関心を寄せたことは想像に難くない。そして1970年には大阪万博が開催されている。
当時はまさに、日本は高度成長のただ中にあった。大人たちの間には戦争の惨禍や戦後の混乱、窮乏の記憶がまだ生々しかったが、むしろそれゆえに日本が焼跡から急速な復興を成し遂げ、そして戦前をもはるかに上回る繁栄を手にしたことに自信を深め、この調子で行けば今後はますます豊かで便利な生活を手にすることができると信じて、「モーレツ社員」「働き蜂」といわれながらもさらなる経済成長路線に邁進していった。もちろん公害問題やエネルギー問題、ベトナム戦争や核戦争の脅威は、こういった科学技術や経済成長万能の神話に対していささかの疑問を投げかけてはいたが、特に1990年代以降の日本が閉塞感にとらわれていることを考えると、まだ「古きよき時代」だったといえるかもしれない。
さらに高度成長と技術革新は、人々の生活や社会の構造そのものを一変させた。1950年代に「三種の神器」と呼ばれた電気冷蔵庫、洗濯機、テレビはすでにほとんどの家庭に普及していたが、当時はカラーテレビ、クーラー、自家用車が「新三種の神器」、あるいは「3C」と呼ばれて新たな消費のトレンドになっていた。そして経済の発展とともに人々は仕事を求めて都会に流入し、その都会では次々とビルが建てられて道路が整備され、都市の郊外では田畑や野山を切り開いて大規模な住宅地やニュータウンがつくられていった。
ドラえもんの作品の舞台となっているのも、このようなだいたい東京郊外のどこにでもあるような住宅街である。そしてパパは都心の会社に通うサラリーマンでママは専業主婦、子供一人の核家族という家族構成も、この高度成長期に増えたものである(以前はおばあちゃんと同居していたが、のび太が幼少のころに死別している)。藤森照信氏は、のび太の家をこのように評している。
「この、のび太の家の模型を見ると、敷地のわりに家が良くない。安普請な家が建っています。いわゆる東京の借家づくりにも似ている」(「ぼく、ドラえもん」2号)
たしかにドラえもんには、借家住まいののび太の家族が「早く自分の家を持ちたい」と愚痴をこぼす場面がいくつかある。さらに前掲誌で藤森氏はこう述べる。
「のび太の家は戦後、高度成長期の日本を代表する典型的な住居建築といえるでしょう。典型的すぎて学問的な面白みには欠けますが、これだけ人々に愛され、受け入れられている『ドラえもん』の主人公が住んでいる家として納得がいきますね」
ここでのび太の家庭に目を転じると、パパは時折のび太に説教を垂れることはあっても、全体的にはのび太同様にどこか抜けているところもあって、家父長制的なガンコオヤジでもなければ、仕事人間になって家庭をおろそかにしている風にも見えない。かつて日本人にアメリカ流の豊かな生活ヘの憧れを抱かせた、アメリカのホームドラマに登場する父親に威厳があるのとは対照的である。ママがことあるごとにのび太を怒鳴っているのがいささか気になるところであるが、それはせめてのび太が人並みのテストの点数をとってほしいと思っているからであって、まさかのび太を一流大学に入学させてエリートコースを歩ませようなどとは思っていないだろう。昨今は「のび太のママは専業主婦で家庭に閉じ込められているからストレスを溜めてのび太に怒鳴り散らすんだ。今は男女共同参画社会で女性も社会に出て働く時代なのに」などとのたまう御仁がいそうだが、当時は電化製品に囲まれた家で主婦になることはむしろ憧れだった。実際、ママがキャリアウーマンとして共働きでバリバリ働き、のび太がかぎっ子という光景はあまり想像できない。のび太のママが家庭の中で存在感を示しているからこそ、ドラえもんの世界観が成り立つのではないか。(小生はここで、母親が働きに出たら家族の一体感がなくなるなどと主張しているのではないので、念のため。)
ドラえもんというと、スネ夫が最新鋭の高価なおもちゃや電化製品、旅行の体験を自慢しのび太がうらやましがるというのが定番になっているが、これはスネ夫の家庭と比較するから悪いのであって、借家とはいえ一戸建ての家に住み、のび太は個室を与えられている野比家の生活水準は当時から見てもそれほど低いとは思えない。いわばのび太の家族は、まさしく「一億総中流」と呼ばれた、「高度成長期の日本を代表する典型的な」家族とはいえないだろうか。
こののび太の町や家族は、ある意味戦後の困窮した時代を必死になって生き抜いてきた当時の日本人が、高度成長時代にようやくかなえたささやかな「夢」そのものだったかもしれない。F先生自身1954年に安孫子素雄先生とともに、本格的にマンガ家としてしてデビューするために上京してはじめて住んだのは、安孫子先生の親戚の家を間借りした2畳の部屋であったという。その当時に比べたらF先生もすでに「オバケのQ太郎」などでマンガ家としての地位を確立し、結婚して子宝にも恵まれマイホームを構えるまでになっていた。このF先生のマンガ家としての歩みは、そのまま戦後の日本のあり方と重なる部分があるのではないか。
しかし高度成長で生活水準はかなり向上したとはいえ、人口が都市に流入するにつれて、住宅難や通勤難、公害や環境悪化などの都市問題は深刻化するばかりだった。そのような問題は、子どもたちの間にも空き地や野山が減り、道路には自動車が増え、川も水質汚染がひどくなって自由に遊べる場所が奪われていくという形で影を落していた。
そのような中で、広い土地があって、公害とも無縁で緑豊かな、それでありながら買物なども便利な土地にマイホームを構え、そこで古い家父長制とも無縁な、ささやかながらほのぼのした家族生活を営むことはまさしく当時の人々の夢だった。大人たちは子どもが自由にのびのび遊べる環境や自然があることは、子どもの教育上も望ましいと考えたのであろう。しかしそれで満足せず、「早く自分の家を持ちたい」「スネ夫のようにもっと豊かな生活がしたい」というさらなる希望、それこそが戦後の日本人を動かしてきたのかもしれない。
しかし21世紀に生きる我々がこののび太の街を見ていると、どことなく懐かしさを感じずにはいられない。家並のすき間には子供の遊び場になっているような空地があり、その隣には子供が悪さをしたらカミナリも落すが内心は子供好きなおじさんがいて、街角にコンビニやチェーン店の姿はなく駅前の商店街にはジャイアンの家のような古びた雑貨屋や銭湯、店頭には顔なじみのおやじがいて買い物客でにぎわう個人商店が軒を連ねている。そして学校の裏には、都市化から取り残されたかのような、一本杉の生えた裏山があり町内には川も流れている。高度成長期以降に造成された団地やニュータウンは小ぎれいで整然としているかわりにどことなく無機質で冷たい感じがするが、こののび太の街にはほのぼのとした近所付き合いも家族の絆もあり、生活感を感じることができる。考えてみたら、ドラえもんにはのび太がパパやママからお使いや庭そうじなどのお手伝いを命じられるシーンがしばしばあるが、このような光景も昨今ではあまり見られなくなっているではないか。
これはまさに、戦後の日本人が夢見た郊外生活そのものと言ってよいかもしれない。F先生自身、「児童心理」1996年7月号の「私の子ども時代」というインタビューにこう答えている。
『ドラえもん』をはじめとする漫画に登場する空き地や町並み、そして人間関係まで、すべて子どものころの体験そのものです。僕が描いている子どもは、自分自身の姿でもあるんです。
当時の人々は、マイホームを手に入れたらF先生がドラえもんで描いている「子供のころの体験そのもの」の延長のような生活が送れると思っていたに違いない。
しかしたしかに大人たちからすれば、郊外のマイホームはまさしく憧れの存在だったかもしれない。しかしそこで暮らす子どもたちの生活は、本当にこのような夢いっぱいのものだったのだろうか。三浦展(あつし)氏(カルチャースタディーズ研究所主宰)はこのような「郊外」がもたらした問題について積極的に発言を行っているが、同氏の指摘する「郊外」の問題点は「『家族』と『幸福』の戦後史」(講談社現代新書)の中にまとめられている。この三浦氏の指摘する問題点は多岐にわたっているが、まず同書から一節を引用してみよう。
ニュータウンに行くと、不思議なことにあまり人気がない。公園でもグラウンドでも子供が群れをなして遊ぶ光景をあまり見ない。子供もそれぞれ塾やけいこごとに通っているので毎日の生活時間が違うという理由もあるだろう。が、そもそもこういうお仕着せの遊び場ではつまらないという理由もあるのではないか。子供はただの空き地や草むらが好きなのである。自分がその空間に関与する余地があるような空間を生理的に好むのである。出来合いのお仕着せの空間では、遊ぶどころか、管理されている気分になるのだ。
この一節を読んで、ドラえもんの読者ならピンと来るだろう。ドラえもんで子供達の遊び場となっているのも、土管のある空き地や裏山である。そこでは野球をやったりジャイアンがリサイタルを開いたり、スネ夫が最新鋭のラジコンを走らせたり、ドラえもんの道具で遊んだりと、子どもが自由に遊ぶことができる。この空き地はボールが隣の家のガラスや盆栽を直撃するという毎度おなじみのシチュエーションによく表れているように、決して周囲の街の風景から浮き上がった存在ではない。さらに裏山ではのび太がいやなことがあったときに自然の中で気を紛らわせたり、秘密基地をつくったり木いちごをつんだり、さらにはスモールライトで小さくなって冒険をしたり、果てはそこに植えてある一本の苗木から地球環境にまで思いを馳せることもできる。F先生が自由に想像力を発揮させることができたのも、これらの空間が「自分がその空間に関与する余地があるような空間」だったからなのだ。ジャイアンが率いる野球チームのジャイアンズにしても、子どもの草野球チームという感じで、大人の影は見えない。
しかし三浦氏は、郊外は住人もほとんどが同世代のサラリーマンとその家族で占められ、住宅や町並みも「均質で無個性」であり、生活空間が機能的すぎて「ごちゃごちゃしているが人間のにおいのする空間」が存在しない、このような「すべてがあらかじめお仕着せで決められ」た空間は「そこに住む人間にとって息苦しいものに感じられる」と指摘している。
実際、今の子どもの世界ではのび太がしずかちゃんのような女の子やジャイアンのようなガキ大将、スネ夫のような金持ちのお坊っちゃんと一緒に空き地で遊んでいるという光景はなかなか見られないのではないか。よく指摘されるように、のび太はジャイアンやスネ夫にいじめられているように見えるが、それは昨今テレビのニュースを騒がせるいじめのような陰湿さはさほど感じられない。元来、子どもの世界でいじめが存在しなかったことなどいつの時代、どこの国にもなかっただろうが、それでものび太が不登校にもならずにジャイアンやスネ夫ともなんとか接していくことができるのは、まだのび太の街にはジャイアンの家のような昔ながらの個人商店もスネ夫の家のような金持ちも受け入れるだけのキャパシティーや多様性があり、いざとなれば商店街でいろいろな品物を眺めたり、裏山で気を紛らわせたりもできる、そのような遊びのある空間だからであろう。
さらに三浦氏は重要な指摘をしている。もう少し引用してみよう。
もちろん郊外は古い伝統的規範からは自由であろう。が、郊外には郊外固有の規範があるのだ。それは戦後の高度経済成長期に急激に強化された規範である。父と母と子供からなる核家族が、それぞれ仕事と家事と勉強に専念し、より「豊かな」生活を目指して物を買い、より「良い」学校や会社に勤め、より高い地位へと上昇し、他方では、他者とお互いに同調しあいながら、あまり目立ちすぎぬようにほどほどに暮らし続けねばならないという規範である。
さらに三浦氏は、郊外にはそのような「郊外的価値観」に疎外感を感じた人間を癒し、救う機能がないと指摘する。実際、郊外にマイホームを求めた核家族では、父親は仕事人間になって家族と接する機会は少なくなり、親は子どもに学歴をつけさせて就職を有利にさせる以外に伝えるべき価値観を失っていった。そして子どもも塾通いなどで忙しくなり、子どもが自由に遊ぶことのできる空き地や裏山も失われていった。さらに家庭内暴力などが問題となり、「家族の絆」のあり方があらためて問われるようになったのもこのころである。
のび太も見方によってはこのような「郊外的価値観」になじめない子どもの一人ととらえられるかもしれない。実際、前にあげたような社会の動きを「学校化社会」と評する人もいるが、ドラえもんを見てものび太の学校生活は最小限しか描かれていない。普通この手のマンガでは運動会や授業参観、身体測定や給食などをネタにして話を一本書くことはしょっちゅうだろうが、それすらほとんどない。学校に行っても先生に叱られテストでは悪い点を取り、ジャイアンたちにいじめられというのではのび太は学校嫌いになって当然だろう。
しかしすでに見てきたように、のび太の家庭も、それをとりまく街も現在から見ればまだおおらかでのんびりしたところがあるのでまだ救われているのではないか。のび太のママものび太のテストの点がよくないのなら塾にでも入れればいいのにと思ってしまうが、なぜかのび太はそうもならずにまったりとした生活を送っている。しかしのび太にとってこのような「学校化社会」は心地よいものといえるだろうか。あるいはF先生は、子どもたちの周りから自由に遊べる時間も空間も失われつつあるということをしっかりと見越していて、だからこそドラえもんの中にそのような夢を託したのかもしれない。
そののび太のお守役のドラえもんも、「のび太を立派な人間にする」という役割を持って未来から来たとはいえ、どこか間抜けなところのあるロボットであるが、のび太にはそのようなロボットの方が相性がいいのだろう。同じロボットならドラミの方が優秀だし、「のび太を立派な人間にする」という目的を果たすためだけならドラミの方がうまくやるかもしれない。しかしそうならのび太は「さようなら、ドラえもん」の話に出てくるような友情を育むことはできなかったに違いない。実際、ドラえもんが町中を歩いたり、屋根の上で野良猫たちと遊んでいたりする光景は、すっかり二十世紀の町並みに溶け込んでいるように思える。
ここまで見てきたように、ドラえもんにはもっと豊かで便利な生活ができるようになると夢想する一方で、経済成長のかたわらで大切なものが失われつつあるのではということを予感し始めていた1970年代の日本人の夢があたかもタイムカプセルのように詰め込まれている。たしかにそれは「夢」にすぎない部分もあった、あるいは社会の変化や技術の進歩は当時の人々の想像を超えていた部分もあっただろうが、だからこそ我々はむしろ、そのドラえもんで描かれた情景を見ることによって、どことなく懐かしい気持ちに浸ることもできるのである。ドラえもんの連載が開始された1970年代以降も時代の流れとともに子どもをとりまく環境は大きく変っていったが、F先生はドラえもんの作品中には当時の流行を取り入れはしたものの、家族の絆や子どもが自由に遊べる空き地や裏山といった、作品世界の枠組みそのものを大きく崩すことはなかった。ドラえもんの連載が始まった1970年代に入ると、経済成長や技術革新がもたらした負の部分もより強く認識されるようになっていった。そしてそのような世相を反映してテレビドラマやアニメ、マンガでも家庭内暴力や少年非行、いじめや不登校、不倫などの家庭問題、青少年問題をテーマにした作品が増えていったが、ドラえもんはそのような世界とは一線を画し続けた。(F先生自身、このようなテレビの動向について「娯楽なんだから、TVくらい明るくなくてどうするの」と語っていたと三女の地子(くにこ)さんは述べている。)しかしそれがかえってドラえもんが現在でも多くの人に受け入れられる要因となっていることは間違いない。むしろ無理に時代に合わせようとしたら、さらに時代が流れたときにはまた時代遅れになるものである。
F先生自身、前にあげた『児童心理』誌のインタビューの中で、自分が描いているのは「現代から見ればもうすでに架空の子どもたち、架空の町」であることを認めながらも、それを違和感なく今の子どもたちや東南アジアなどの外国でも受け入れ共感してくれる、そういうものは時代や国を越えて、心の底で通いあっているのではと述べている。だからこそ子どもはドラえもんの道具が繰り広げる話のひとつひとつに夢や想像力を遊ばせ、大人はそこに過ぎ去った子どもの世界のことを思い出して心をなごませることができるのである。90年代に入ってバブルが崩壊し、経済成長に依存してきた戦後の日本の社会や生活そのものが根本から揺らぎを見せている今だからこそ、ドラえもんを読返してみる意義はあるかもしれない。
2005年にテレビアニメ版のドラえもんが声優を一新して全面的なリニューアルを行ったことは、アニメファンならずとも世間で話題になった。インターネット上でも賛否両論の議論が飛び交ったが、小生がリニューアルにあたって気になったのは、これまであげたようなドラえもんの作品世界そのものを崩してほしくないという点である。それさえ守ればたとえ声優が変り、ダイヤル式の黒電話がコードレスホンになったところで心配することはないだろうと考える一方で、コンビニも携帯電話もないというドラえもんの世界観がどれだけ今の子どもに受け入れられるだろうかと危惧する気持ちが一方であったことも事実である。しかし実際に放映されたドラえもんを見て、原作の世界観を重視していることを嬉しく思うと同時に、先にあげたような不安は杞憂だったと感じた。今でも時代はせわしく変り続けているが、ドラえもんはそのようなせわしさの中でふと足を止めてまわりを見渡す機会を与えてくれるような、そのようなマンガであってほしいと思っている。
これまでドラえもんの作品世界を主に時代背景や舞台設定といった面から考察してきた。今度はF先生がドラえもんに託して訴えたことは何かを「のび太」というキャラクターを通して考察してみたい。
のび太は一見してダメな男の子のように見える。テストはいつも0点ばかり、スポーツもからっきしだめ。おまけにグズで弱虫でドジで怠け者でのろまで、いつも先生やママに叱られジャイアンやスネ夫にいじめられて、ドラえもんに泣きついてばかりいる。
F先生がことあるごとに「のび太は自分自身だ」と語っていたのは有名な話である。実際、グズで弱虫で、いつも損な役回りを引き受けている子どもはいつの時代にもいただろう。しかし小生はのび太というキャラクターには、どうも1970年代という時代が影を落しているのではという気がする。
小生がのび太を見て一番ダメだと思う点は、コンプレックスと自信のなさである。のび太は勉強ができないというのはもはや定説のようになっているが、そののび太もひみつ道具を使うとき、あるいはドラえもんにひみつ道具をねだるときには意外な冴えを見せたりする。おそらくのび太は学校教育というものが性に合わないだけであって、少し発想を変えればできるようになるのではという気がするのだが。実際、怠け者のように見えるのび太だって、ピー助やのら犬イチを守ろうとしたり、あるいは「宇宙ターザン」を打ち切りから救おうというときには人一倍奔走しているではないか。
しかしこののび太の「自信のなさ」は、昨今の青少年の問題について考える上で看過できないものがあるように思う。というのは、昨今社会問題になっている「引きこもり」や「ニート」といわれる若者の姿に共通するのが、この「自信のなさ」であるからだ。自分に自信がない人間が職探しをしたところで、昨今の社会状勢ではいい就職などできるはずがないが、そうなると彼らはますます自信を喪失するという悪循環に陥っていくわけである。
なぜのび太には自信がないのか。これは前に述べたように子どもの世界が学校的な価値観で染め上げられていったということもあるだろうが、やはりのび太は子どもの世界の中で生きていくためのコミュニケーション能力がいささか欠けているからという点もあるだろう。出木杉は完全無欠の優等生であり、ジャイアンは腕っぷしにものを言わせて子どもたちの世界に君臨し、スネ夫は最新鋭のおもちゃやホビーで仲間たちの関心をひきつけている。現実の子どもの世界ではジャイアンのようなタイプはドラえもんの連載当時から稀少価値が出つつあったが、時代の変化を表しているキャラクターはむしろスネ夫とのび太であろう。
ドラえもんの連載が始まった1970年代はまさしく大量消費社会が子どものあり方を大きく変えていった時代であったが、スネ夫はその大量消費社会をうまく味方につける一方で、のび太はどうもそれにも乗り切れずにいるように思えてならない。もう少し時代が下がれば、のび太のような子どもも「おたく」と言われながらもアニメやゲーム、パソコンなどの世界に自分の居場所を見つけだしたかもしれない。出木杉のように学校生活になじむこともできず、ジャイアンに象徴される昔ながらの子どもの世界にも、スネ夫に象徴される大量消費社会にもどこか乗り切れずにいる、このような中途半端な存在がまさしくのび太ではないだろうか。
事実、当時の子どもたちが大量消費社会の中でテレビやゲーム、キャラクターやホビーなどに親しんでいたのに対して、大人たちはそのような子どもにどのように接するべきか戸惑っていたようにも思えるが、のび太の存在もそのような時代の変り目を象徴していたかもしれない。
しかし昨今のように社会が急速に変化する中で、だれもがのび太のようにならないと言い切れるだろうか。このようなのび太の姿を象徴的に表している話が「森は生きている」である。この話では「裏山に来ると気持ちが安らぐ」というのび太にドラえもんは森と心を通いあわせることができる「心の土」を出してやるが、しだいにのび太は裏山に入り浸って友達とも遊ばなくなり、家に帰るのも遅くなっていく。そしてある日ママにこっぴどく叱られると、のび太はついに家を飛び出して裏山にこもってしまう。ドラえもんは心の土を出したことを後悔し、「心よびだし機」で山の心を説得してのび太を裏山から追い出させる。家に戻ったのび太に、ドラえもんは「ゆめをみていたと思えばいいんだよ。わずかの間だったけど、楽しいゆめを」と話しかけるのだった。
この話の中ではのび太の優しさと、その裏に潜む弱さがよく描かれている。しかし昨今では、この話ののび太に見られるような、気は優しいがどこか心の奥に弱さをかかえ、人間関係のあり方に悩んでいる子どもや若者が増えているように思えてならない。裏山はドラえもんの作品世界では、まさしくだれもがヒーローになって自由に遊ぶことができる子どもの夢と冒険の象徴として描かれているが、その裏山を去らなければならなくなるということは、まさしく「大人になる」ということのメタファーなのだ。昨今はよく「最近の青少年は成熟できない」と言われるが、裏山にこもってしまうのび太の姿はそのような今の青少年の姿を暗示しているように思えてならない。
このようなのび太にドラえもんが与えた一番の宝物、それはやはり「自分を理解してくれる友達がいる」、そのことではないだろうか。ドラえもんを読めばよくわかることだが、のび太はドラえもんが来てひみつ道具を借りたからといって、すぐに勉強やスポーツができるようになったわけでも、ママや先生から叱られたりジャイアンやスネ夫からいじめられたりすることがなくなったわけでも、女の子からもてるようになったわけでもない。しかしドラえもんと一緒に遊んだり、冒険をしたりすることによって、のび太の中には確実に何かが変っているはずである。
このことをいちばんよく表している話が「さようなら、ドラえもん」ではないだろうか。この中でのび太はドラえもんの助けを借りずに、ボロボロになりながらもジャイアンにケンカで勝つことに成功する。のび太自身、自分の運命を変えるものはドラえもんの道具の力ではなく自分自身だということをしっかり認識していたわけである。(よくドラえもんに対して、のび太が安易にドラえもんに依存しているという批判をする人がいるが、このような見方がいかに的外れかはこれを読めば明らかであろう。)
F先生自身、このように語っている。
ドラえもんはあくまで空想であって、哀しいかな現実にはいないんです。ですが、結果として、人間は何かのトラブルにぶつかって、いろいろ悩みながら切り抜けていくことで成長していく。それが大多数の人生のあり方ですよね。
それに、ドラえもんのようにまとまった形での助っ人は存在しないけれども、さまざまに助けてくれる人がいたり、そういう状況があったりするものなのです。だから、ある意味で、ドラえもんはどこにでもいると、そういっていいと思うんです。(『DENiM』1992年8月号)
これを見てもわかるように、ドラえもんはのび太が他人とのコミュニケーションを通して人間的に成長していく物語だといえるかもしれない。「どくさいスイッチ」という話では、ジャイアンにいじめられたのび太が、ドラえもんから気に入らない人間をこの世から抹殺できる「どくさいスイッチ」を出してもらうが、のび太はこのスイッチで世界中の人間を消してしまう。はじめは開き直って「この地球がまるごとぼくのものになった」と言っていたのび太も、一日もしないうちに孤独感に苦しむことになる。しかし小生には、こののび太の姿はまさしく「引きこもり」の若者と重なって見えてならない。だからこそ、この孤独感に苦しむのび太の前にドラえもんが姿を現したときののび太の感動がより強く伝わってくるのである。
(これは余談であるが、小生は最近のマンガやアニメには、親子や家族の関係、さらには未成年と大人との関係がほとんど描かれていない作品が目立つのが気になっている。親が海外出張だか死別だかで子どもが小ぎれいな家に別居して住んでいて、そのくせして銀行には金が振り込まれるらしく生活にも不自由していないというような設定を見ていると、未成年がウザい大人を排除して自分だけにとって都合のいい世界をつくってしまったという気がしないでもない。これは親は家庭をなかなかかえりみず、子どもは大量消費社会を謳歌しながらもどこか心に空虚さを感じているという、今の社会のあり方を象徴しているように思えてならない。)
いささか話が脱線したので元に戻そう。ドラえもんがのび太のところに来る前に予想されたのび太の未来は、のび太は将来何をやってもダメで、しまいには事業に失敗して多額の借金をつくり、その借金がセワシの代にまで重くのしかかるというものだった。しかしドラえもんがのび太のもとに来ることによって、のび太の未来は憧れの人であったしずかと結婚し、ささやかながら幸せな生活を送るというものになった。なぜしずかが出木杉のような優等生でも、腕っぷしの強いジャイアンや金持ちのスネ夫でもなく、のび太を結婚相手に選んだのかという点については、「のび太の結婚前夜」の中にある以下のしずかの父親のセリフに集約されている。
「のび太君を選んだ君の判断は正しかったと思うよ。
あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことの出来る人だ。
それが人間にとって大事なことなんだからね。
彼なら間違いなく君を幸せにしてくれると僕は信じているよ。」
このセリフにはのび太のようなダメな男の子でもがんばれば必ず明るい未来が開けているという、F先生の希望が込められているように思える。いや、このような家族でささやかながらほのぼのとした生活を送りたいという希望こそが、戦後の日本人が広く共有してきた「ジャパニーズ・ドリーム」そのものだったかもしれない。
「きらいなテストにガ〜ンバ!」という話では、テストに備えて勉強しなければと思いながらも、いざ机に向うと怠け心を出してしまうのび太に、ドラえもんは「心つき出ししゅ木」でのび太の怠け心とがんばり心をつき出させ、怠け心とがんばり心を戦わせる。しかし怠け心が勝ち、のび太が遊びにいってしまうのを見てさすがのドラえもんも呆れてしまうが、それでものび太のがんばり心がヨロヨロになりながらも机に向うのを見て「けなげなやつだなあ……。これをけさないように根気よく育てていかなければ……。」となごやかな気持ちになるのだった。F先生はどのような人にもそのような「がんばり心」がある、そしてそれがある限りどんな人にも明るい未来があることに期待をかけていたのだろう。
しかしF先生が亡くなられた今、日本という国全体が経済成長を実現して豊かな生活を手に入れるというこれまでの目標を見失っている。さらにこのような状況を反映してか、若者もニートや引きこもり、さらに結婚して家族のささやかな幸福を手に入れることもできない若者が増えことからもわかるように、「のび太」をめぐる状況はある意味さらに困難を増しているように思える。そのような時代だからこそ、F先生が「ドラえもん」を通して描き続けてきた夢と希望にさらなる関心が集まっているのかもしれない。
最後に、F先生がのび太たちに託したメッセージをひとつ紹介しておこう。「45年後……」という話では、タイムマシンで45年後の未来からやって来た大人ののび太が、入れかえロープでのび太と入れ代わり、子ども時代を満喫した後、帰るまぎわにのび太にこのような言葉を残す。
「一つだけ教えておこう。きみはこれから何度もつまづく。でもそのたびに立ち直る強さももってるんだよ」
ドラえもんがのび太に与えたものは、つまづきのない前途洋々の未来ではない。何度つまづいても、「そのたびに立ち直る強さ」なのだ。F先生がマンガ家になることを志した当時は、マンガ自体が現在のように社会全体から広く受け入れられる存在ではなかった。F先生はそのような状況の中でマンガを描くことに対して挫折感を味わったり、自信を失ったりしたことも何度もあったに違いない。だからこそこの大人のび太の言葉には重みがあるというべきだろう。どのような困難があっても自信を失わずに自分の目標へと歩んでほしい、それがF先生の読者へのメッセージではないだろうか。
ドラえもんの連載を精力的に続けてきたF先生も1980年代の後半から体調を崩し、1987年からは約1年間の休載を余儀無くされた。その後ペースを落しながらも連載を復活させたものの、1991年には再び入院してしまう。
F先生が著した短篇として最後の作品となったのは、『小学三年生』『小学四年生』1991年4月号に同時掲載された「こわ〜い! 『百鬼線香』と『説明絵巻』」である。この作品はドラえもんとのび太が、煙をかけたものがお化けになって持ち主のもとに現れる「百鬼線香」を使って、ムダ遣いをしているスネ夫を懲らしめようとするという内容だが、この物質万能主義や資源の浪費を戒める内容の作品がドラえもんの短篇として最後の作品となったこと、そしてその作品が発表されたのは1991年という、まさにバブルが崩壊し日本経済が迷走を始めた時期であるという点は、偶然とはいえ何かを暗示しているように思えてならない。
以降F先生はほぼ年一度公開される大長編映画の原作に絞ってドラえもんの創作を続けるが、ついに1996年9月23日、62歳の若さで永眠した。それも自室でドラえもんを執筆中に倒れ、病院に運ばれても意識を回復することのないまま息を引き取ったというのがその最期だという。その亡くなられる直前、『トランヴェール』誌1996年1月号の対談でも、F先生は「(ドラえもん)を僕はまだ描き尽くしたとは思っていない。徹底的にあと一滴も絞れないというところまで、絞って描いてみたいんです」と語っている。F先生がここまでドラえもんの執筆に意欲を示していたのは、単に子どものためというだけではなく、「のび太」だったという自分自身のあり方を問い直すためだったかもしれない。
時代はさらに流れ、ドラえもんの連載当時に比べて人々は将来に対して明確な夢を描きにくくなったし、ドラえもんで描かれた風景も過去のものになっているような面がある。しかしF先生がドラえもんに託して描き続けた夢やメッセージは、今でも色あせずに輝きを放ち続けている。これは決して単なるノスタルジアでも、子どもの世界だけのものでもなく、今でも大きな意味を持っているものなのだ。
そして小生は、ドラえもんを読返すたびに、よくこのように考えるのである。
「もし今F先生が御存命なら、今の社会のあり方をどのようにご覧になるだろうか」
(追記)
この一文を書いているうちに、ふと『新世紀エヴァンゲリオン』のことを思い出した。『エヴァ』がTVで放映され一大センセーションを巻き起こしたのは1995年10月から翌年3月、まさにF先生が亡くなる直前だった。完結編となる劇場版(97年夏公開)には間に合わなかったとはいえ、もしかしたらF先生もTV版は知っていたかもしれない。『エヴァ』は碇シンジという、のび太同様にコンプレックスを抱えた内向的な少年がどのようにして他人や自分をとりまく現実に接するかという点が大きなテーマだったわけだが、果たしてF先生が『エヴァ』を見たらどのような感想を抱いたか、少々気になるところである。