飢人地蔵を巡る ⑤

享保の大饑饉
2026年10月11日


福岡藩が設けた「救い小屋」のあった魚町浜(現在の荒津1丁目から港1丁目あたり)
享保の飢饉とは

「享保の飢饉」は、今から約300年前、享保17年から18年(1732年~33年)にかけて西日本全域を襲った干ばつと害虫大発生による未曾有の災害のことです。 江戸時代中期德川吉宗の時代です。もちろん、江戸時代の飢饉は、この間だけに限った災害ではありません。後の天明、天保と続き、前後30数回にも及びます。寄せては返す状態で庶民の暮らしも疲弊仕切っていました。
 飢饉を巻き起こした原因は、年末からの天候不順で、麦と稲の生育を滞らせてしまいました。また、2月から5月にかけて長雨と低温が続き、植えている麦が腐ってしまいました。5月以降の天候は、長雨と低温が続き、太陽がなかなか顔を出してくれません。これでは植えた早苗が生育しないのは当然で、「ことしは不作ばい」と農民を嘆かせるばかりです。6月にはウンカ(カメムシに似た害虫)が大発生します。その様子は、虫で覆われた田んぼ水の色が変わってしまうほどだったと言います。
 7月から8月にかけて、ようやく梅雨が明けたと思いきや、気温は上がらず(低温)、稲が熟しません。加えて、家畜の疫病も蔓延し、福岡藩だけでも4000頭の牛馬が死に、耕作能力が著しく低下しました。農民は、山に入って葛(くず)の根や木の皮を剥いで食べ、命を繋ぎました。
 この年は、西日本全藩(46藩)で餓死者が続出しました。福岡県内の餓死者の内訳は、
福岡藩:7万人~10万人(人口32万)
小倉藩:領民の4分の1(人口約4万)
久留米藩:1万2000人

と記録されています。その結果、農村部の貧民が都市部に流入して、行き倒れ人が続出しました。この時の餓死者を哀れみ供養したのが、次の項で紹介する「井原ヶ谷の飢人供養」と、警固3丁目の「味噌食らえ地蔵」などです。

現代の異常気象と瓜二つ

 享保の大饑饉の資料を読み起こす度に、全身が震えだすほどでした。だが、これらの大災害は、天災とばかりも言っておれない事情があります。当時の飢饉を「人災」だと言い切る専門家さえいるくらいです。飢饉の原因が幕藩体制による激しい収奪にあったからです。農民や庶民を生死の境に置いておく政策こそが、江戸期の大饑饉を呼び起こしたのではないかと。
 それでは、江戸期の飢饉を、現代の災害に置き換えてみましょう。令和の御代にも、信じられないほどに理不尽な災害が頻発しています。15年前に2万人の犠牲者を出した東日本大震災に始まり、能登地方、関西地方、熊本地方、そして最近の千葉県に襲いかかる洪水など、災害が多発しています。特に、能登や熊本、千葉方面は、一度ならず二度三度と、地震や豪雨が襲いかかっているのです。
 江戸期と現代が違う点をあげれば、情報伝達手段は台風や豪雨などは予め事前に国民に知らされることです。従ってある程度の備えや準備はできます。でも、災害の度に多数の死者を出している点は、むかしとちっとも変わりません。むしろ現代の災害は、復興が腹立たしいほどに遅れています。「そんな非常事態のときのために、苦しくても税金を納めているのに…」と嘆いてみても、政府や政治家は「そうかそうか」と形ばかりの同情しか示そうそうとしないようにみえます。
 令和の今日に見る大災害と、300年前の享保の大飢饉を比べてみて、そんなに大きくは進化していないようにみえるのは、ボクだけなのでしょうか。

井原ヶ谷の飢人供養
福岡市南公園

 休日には子供連れの家族で賑わう福岡市動植物園。福岡市内を見おろす南公園内に設けられています。南公園(江戸時代には大林山)は、まるでスキー競技のモーグルのような小山が無数に並んでいます。小山のことを江戸時代には「二十八谷」と呼んでいましたから、その数28も連なっているのでしょう。中でも一番高い場所にある植物園から南方を眺めれば、彼方には標高597㍍の油山が居座っています。その間の平野は、油山から博多湾までくねりながら流れる樋井川を挟むようにして、田んぼがひしめいていたのではないでしょうか。

江戸期福岡城と南公園の古地図
○南公園 ×魚町浜 中央が福岡城堀


 当然のように、田んぼの周辺には農民が住み着いていたことでしょう。農民は、これまでに経験したことのない干ばつとウンカの大発生に悩まされ、食うものにも事欠くありさまでした。それでも役人は、年貢の取り立てを遠慮しません。
 登場人物を仮に「徳兵衛」さんと致しましょう。痩せ細った女房や3人の子どもたちは、動く元気もなく寝そべったままです。近所に住む与三郎が徳兵衛さんに耳打ちしました。「このほどお殿さまは、難儀している百姓に粥でも炊いてやれと命じられたそうじゃ。炊き出しの場所は荒津山(現西公園)のふもとの魚町浜げな。俺も行くけんおまえもどうか」と誘ったのです。
「魚町浜ちいえば、ここから1里もあるばい。お粥は食いたかばってん、ひもじゅうてそこまで歩いていけるかどうか」と悩むこと。そこで女房どの、「このままじゃ、どうせ飢え死にするだけたい。子供は車力に乗せて行けばよか」と、亭主の背中を叩いた。
 いくつかの低い山を越えて、大林山のふもとまではなんとかたどり着いた。子どもたちは「ひもじか」と鳴き叫ぶばかり。徳兵衛さんも女房どのも、子供を慰めることも叱ることもままならない。大林山の峠に来て、周辺は楠やけやきなどの高木が覆い被さり、ひもじさよりも悲しさが先に立つ。でも、涙は出ない。女房どのが突然膝をついてその場にしゃがみこんででしまった。気がつけば、ひもじさでぐずりっぱなしだった2人の子も静かである。覗き込むと、女房も子どもたちも顔は真っ青。息をしていないのだ。励まし合って山を登っていたはずの弥三郎とも、途中ではぐれてしまった。そこで座り込んだが最後、徳兵衛さんの意識も消えていった。
 今来た道の反対側(北)を見おろせば、黒田城を囲む堀が見える。その向こうが荒津山(西公園)で、すぐそばに魚町浜が見えるはず。そこでは、黒田藩による「救い小屋」が立ち、大勢の百姓たちが群れている。


現在の南公園飢え地蔵あたり

味噌喰い地蔵尊
福岡市中央区警固3丁目

 徳兵衛さんと途中ではぐれた与三郎とその女房どの。気がつけば、途中で倒れた徳兵衛さん一家が息を引き取った井原ヶ谷(南公園)を下りてきて、古小烏(現桜坂駅付近)に着いた途端だった。倒れ込んだ女房どのが息絶えたのだ。これから藩の救い小屋まであと僅かの距離なのに、滅多に泣くことのない与三郎の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 与三郎は、息絶えた女房殿の手を握り、その横で自分も眠ることにした。周囲で、同じように餓死したお年寄りとその向こうには、幼い女の子が泣き疲れて、亡くなっている。

 それから時を経て文化年間。大長寺の住職が、子供の頃に目撃した餓死者が連なる地獄絵を忘れられず、「施餓鬼供養」を思い立った。古小烏も小高い丘の上に無縁塔を建てることを決意した。そして、塔の上に地蔵尊をそえたのであった。その後は、お地蔵さん詣りが後を絶たなかった。
「ひもじかろうに…」と、お地蔵さんを餓死した人の身代わりに仕立てて、口もとに味噌を塗りたくった。これが、「味噌喰い地蔵」と呼ぶようになったとのこと。


味噌食い地蔵尊

地蔵尊への階段

建立から200年以上が経ち顔面も風化が進む

最初に築かれた無縁塔を建てその上に地蔵尊を乗せた

丁寧な由来書

(つづく)

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