飢人地蔵を巡る ④

享保の大饑饉

久留米藩の騒動
2026年9月20日

 「享保と令和」が重なる

 享保の大飢饉は、日本列島の西半分を屍の荒野と化した。現在もなお列島のあちらこちらで爪を立てる大地震や豪雨の惨状と享保の災害をつい重ねて見てしまう。熊本地震の爪痕は、一ヶ月経ってもほとんど復興していない。能登半島では、地震の復興ままならないときにまた、大雨の被害である。マグマの真上で生かされている人類であれば、それも仕方のないことなのか。
博多の「川端飢え人地蔵」に始まって佐賀平野の「千人塚」へ、そして福岡・田島のお地蔵さんと対面した後、今度は筑後平野に下りたった。300年前の享保・宝暦・明和の時代の飢饉と農民の戦いなどを手繰るためである。
日本でも有数の米所で知られる筑後平野は、もちろん大河・筑後川の恩恵があってこその繁栄である。だが、一度へそを曲げた大河は、容赦なく農民や町民を打ちのめしにかかってくる。享保・明和の飢饉はその最たるものである。別表の一覧表で示すとおり、洪水と渇水を繰り返す内に、イナゴやウンカがはびこり、農民の僅かばかりの収穫物をも食べ尽くしてしまう。その上役所からは容赦なく年貢の催促と働き手の駆り立てである。当時の狂歌がその惨状を物語る。

百姓と鮎のわたこそ似たりけり女房うるか子うるか

まさしく、神も仏も助けてくれない時代の皮肉歌であった。

大水が暮らしを壊す

 享保の時代から数えて300年。確かに時代も環境も変わった。だが、繰り返し押し寄せる災害は、庶民の暮らしを安定させてくれないのは、今も昔も同様だ。今朝のテレビでは、2026年8月の「千葉豪雨」で被災した73歳の女性の苦労を取り上げていた。未だ家のローンを払い終えていない彼女は、自家用車を駆使して、職場に通っていあた。そこに「千葉豪雨」である。車は水に浸かり、廃車になってしまった。家は腰の辺りまで水に浸かり、昨年亡くなった旦那さんを祀る祭壇まで泥水に沈み込んだ。命綱だった車をなくし通勤できなくなった彼女に、もっとも厳しい災難が。会社から「解雇」の通告が届いたのだ。「どうして生きていけばいいのか」と嘆く彼女。これが、令和の時代の現実である。 享保饑饉とどこが違う?
ボクの生まれ故郷である筑後地方の、享保の時代の藩史を下に載せた。飢饉による災害死が1万人、働き手の馬の死が4000頭とある。食っていけない農民は、藩に向かって抵抗を試みた。一揆である。だが、責任者は無残にも打ち首になる。その模様を、一覧表の中から読み取って欲しい。

また次の文章は、本サイトに掲載した伝説紀行の中から、享保時代の久留米史を読み物にしたものです。参考にして頂ければ幸いです。

つづく


耳納連山ふもとに広がる田園

耳納連山から下りてきた巨瀬川

筑後川岸の久留米城址

享保飢饉前後の久留米藩


西暦
和暦 月日 出来事
1717 享保02 06月 洪水。耳納山筋山汐。筑後川・巨瀬川氾濫。被害多し。
1719 享保04 夏 風害にて凶作。当時の狂歌「百姓と鮎のわたこそ似たりけり女房うるか子うるか」
1720 享保05 06月 享保の大洪水。上三郡被害甚大。
1721 享保06 06月 洪水。
1724 享保09 この年 豊作。
1725 享保10 夏作凶作。
1726 享保11 大洪水、凶作。
1728 享保13 02月 上三郡農民各地に集合。増税反対。万事正徳2年以前への復帰を要求。享保一揆始まる。
1729 享保14 07/06 農民一揆への対応、本庄・久米の処刑などで稲次因幡ほか国元重臣と軋轢。
1730 享保15 04/27 暴風・洪水・麦不作。
1731 享保16 この年気候不順。五穀稔らず。
1732 享保17 05月 大雨・洪水。
6月~7月 気候不順、蝗大量発生。領中飢餓。
09月 幕府から1万5千両借金。
家中扶持人に至るまで上米命じる。
この年 年貢、平年の5分の1に。
餓死者、1万198人。死馬4000頭。
1733 享保18 01月 五穀高値。米価銀48匁、銀札150匁となる。
秋 豊作。米価正銀で10匁下がる。
1742 寛保01 06月 5月末から大雨。
上妻筋山潮。その後大雨・洪水続く。
1745 延享01 07月 洪水、長野水道を壊す。
1746 延享03 02月 飢餓のため在方へ救米1万俵出る。
1747 延享04 02月 うち続く損耗により、物成を2万俵減石。
11/23 東海道諸河川普請手伝いで幕命。家中は米1万俵、在町とともに畝掛り・小間掛り人別銀を徴収。
1749 寛延02 05/13 洪水。享保5年の山汐から4番目の大水。
1753 宝暦03 11/22 幕府から困窮時のため囲米を命じられ、2万1000俵を貯穀する。
1754 宝暦04 02/22 家中・寺社・在町一統へ人別銀課せられる。在町は1人銀札6匁、家中は100俵につき10匁。
03/27 筑後川八幡河原に上三瀦・御井・御原農民6万人集合。
03/28 上妻郡農民6000人、吉田山に集合。
03/30 三瀦郡田川原に3000人集合。
所々で大庄屋・庄屋・酒屋・富商宅を打ち崩す。
04月 5月下旬にかけ、各地で村役人の不正追及と地主への小作条件改善の要求が起こる。
06月 一揆指導者たちへの詮議開始。捕縛300人、8月20までに終了。
08/27 首謀者ら18人、二つ橋で死刑執行。その他、郡追放39人、村払い32人、科料47人。
10/05 一揆の際の「骨折り」に対して、被差別部落民へ寺社祭礼の節「物真似芸」を許される。
10/27 第2次処分、19人が死刑。
10/29 領内一向衆寺院、一揆の時の「徒党同然の仕形」を咎められ、府中町永福寺・野中村了徳寺は閉門に。
1755 宝暦05 06/05 筑後川洪水、宮地で1丈8尺。
12月 盛徳院、津福村池青寺門前に水茶屋を取り立てる。
1756 宝暦06 04月 藩庁、在町御用聞60人に銀調達を課す。
1765 明和01 この年 連年の筑後川洪水で領民窮乏。

耳納を崩して堰き止めよ
草野又六伝

福岡県大刀洗町

 
大刀洗(手前)と田主丸(向こう側)を結ぶ恵利堰

 江戸時代、筑後川に4つの堰が築かれた。上流から浮羽町の「袋野用水」。浮羽郡吉井町の「大石・長野大堰」。そして朝倉町に築かれた「山田井堰」と「恵利堰」がそれである。何れも堰(用水路)築造から290年~350年の月日を経ているが、農民にとっては今日もなお命綱である。
 このうち、第69話では大石・長野用水を紹介した。今回の草野又六もまた第11話で紹介した「床島堰の少女おさよ」と共通する。

下級武士と庄屋

 宝永7(1710)年。筑後川の北岸は記録的な干ばつに襲われた。そのため、筑後川中流を領域とする久留米藩も上納米が見込めず困っていた。
 そんなクソ暑い昼下がりである。草野又六の屋敷に鏡村の庄屋高山六右衛門が訪ねてきた。
「どうした? 今にも俺に噛みつきそうな顔ばして」
 又六は、自分より若い六右衛門をからかうようにして迎えた。
「どうもこうもなかですよ、こげん雨が降らんじゃったら・・・。村中みんな飢え死ですたい」
 人一倍正義感の強い六右衛門である。何とかして欲しいと掛け合いにきたのだった。
 六右衛門が住む鏡村は、筑紫山地を水源とする佐田川と小石原川が筑後川に流れ込むあたりにある。干割れした田んぼにはどじょうやタニシの死骸が天日にさらされたままだと嘆いた。


写真:桂川の水門

「やっぱり大川(筑後川)に堰ば築いて水を引くってのは無理な相談ですかね?」
 40年前には上流の袋野用水(現浮羽町)が筑後川をせき止めて水を引き込み、豊かな水田ができあがった。彼らにできたことがここではどうしてできないのか。
「筑前の者たちさえ了承してくれりゃ簡単なことだが・・・」
 佐田川や小石原川の上流はすべて福岡藩領である。久留米側が二つの河口をせき止めれば、大雨が降ればたちまち洪水の危険にさらされるのが筑前側である。久留米藩も滅多な強硬手段はとれない。

計画書

「我慢も限界ですばい」
 六右衛門は、必死で藩の行動開始を訴えた。「それなら」ということで、又六は近隣の庄屋が連判状を作って来るよう命じた。
 六右衛門は駆け回った。高島村の鹿毛甚右衛門、稲数村の中垣清右衛門、八重亀村の秋山新左衛門(いずれも現在の久留米市北野町)なども加わって、河北の庄屋たちが本気になった。そして藩の郡奉行に「堰溝築開願書」を提出した。宝永7年(1710年)10月20日のことであった。


写真:旧久留米城三の丸濠跡

 願書の内容は、恵利の瀬をせき止め、そこから大川(筑後川)の水を引き込み、西に1200間(2160m)の溝をつくり、江戸村(現大刀洗町)から枝溝を通じて北野方面の農業用水を供給しようという壮大な計画であった。この工事が無事完成した暁の皮算用として、①現在の田畑800町歩(800ha)に加え、新たに700町歩の新田が可能となる。②これまで上納米にも不足していたが、米大豆差し引き1ヵ年分が増産でき、米の増産は7000俵を見込む、などであった。そしてかかる費用は藩から借り受け、人夫はすべて郡役(自前)を前提とした計画書であった。


今も大活躍の床島水道


 久留米藩にとってこんなにおいしい話はない。郡奉行を通じて計画書を見た藩主則維公が喜んだ。その時、筑前領とのトラブルの心配は後回しにされた。

堰の長さは300米

 そこで、土木技術に長ける草野又六に出番が回ってきた。普請奉行野村宗之丞の配下について実質総監督(普請総裁判)に任命されたのだ。又六はかねて構想していたように高山六右衛門を「御用手伝御用聞」、つまり自分の右腕として起用した。残りの庄屋にも金勘定など重要な役割を持たせた。肝心の人夫は村総出の3500人体勢である。まさに、生きるか死ぬかの大勝負であった。


大堰公園

 草野又六と庄屋たちは現場近くに合宿して、農民らの指導に当った。なにせ筑後川の幅は170間(310m)と長い。その上この付近の流れは速くて水量も多く、難工事は宿命みたいなものであった。俵に詰め込んだ石を投げ込んでも、木の葉のようにすぐ流されてしまう。工事は遅々として進捗しなかった。一方溝堀りの方は農民が得意とするところ。見る見るうちにその距離を伸ばしていった。

又六よ、あの耳納を見よ

「草野さまはどこへ行かれた?」
 六右衛門が尋ねるが、誰も知らない。実は又六、その時大橋村の実家に戻って不貞寝(ふてね)を決め込んでいた。「自分は土木技術の天才」と自認していたが、ここにきて自信を喪失してしまったのだ。杭を打って重い石を積めば流れをせき止められると見込んだものの、積み上げた石は木の葉のごとく流されてしまい、いっしょに自尊心まで吹っ飛んでしまった。あちこちからかき集めた岩石も残り少ない。打つ手を失った又六は、頭を冷やすために母親の元に逃げ込んだのだった。


耳納連山

「又六、おまえはそこで何をしておる!」
 部屋に入ってきた又六の実母殿。
「すっかり自信を無くしました。川をせき止める石が足らんのです」
「馬鹿者、何千人もの百姓衆がおまえの次なる指揮を待っておるというのに」
「ですが・・・、思ったより水の流れが強くて」
 母親は寝そべっている息子の枕を蹴飛ばした。
「又六よ、あれを見よ」


(写真:大堰神社)

 飛び起きた又六が母の指の先に目をやった。そこには耳納連山がでんと居座っている。
「あの山が何か?」
「まだわからぬのか。おまえは今、筑後川をせき止める石がないと言った。そうではなかろう。あの耳納の山はすべて岩石でできておる。山を削れば、たかが170間の川が何ほどのものぞ」
 無茶を言う母親ではあった。

ボロ舟集め

草野又六はすぐさま工事現場に戻った。彼は工事をいったん中断して村の内外からボロ舟と無縁の墓石を集めさせた。手のすいたものは夜通しで俵を編んだ。それは年末から正徳3年(1713年)の年明けまで続いた。草野又六の最後の賭けであった。
 2月も晦日を迎えて、3500人の人夫が川岸に集められた。六右衛門は俵に詰めた石をボロ舟に積ませ、川中央で転覆させた。舟と石が流れに逆らって堰の基礎を築いていった。その時川底に投げ込まれた俵の数は、50万個にも及んだという。

 せき止められた大川の水が溝に流れこんだ。そこまではすべて順調だった。が、急いで掘った溝は貧弱で漏水が激しく、水はなかなか水門の江戸村(現大刀洗町冨多地区=床島用水路から江戸前水門を経て受水したことからその名がついた)に届かなかった。
 そこで又六の新たな作戦が開始される。床島から取り入れられた水は、途中佐田川と交差してまっすぐ西方に向かうのだが、不足する水量を補うために佐田川に杭を打って水量を上げ、用水路に分水しようと言うのである。
 その後も又六の陣頭指揮で修復が繰り返され、間もなく床島堰と2400㍍の用水路が完成し、周辺38か村の田んぼに灌漑用水が行き渡った。筑後川の北方約2000㌶の田が潤い(現在はそれが3000haに拡大)、久留米藩は幕府に対して「2年間で新田1万石を開発」と報告した。

水田倍増

「よくやりましたなあ、草野さま」
 高山六右衛門は眼下の恵利大堰を眺めながら目頭を拭いた。
「おまえたち庄屋と百姓の力があったればこそだ」
「ところで、その後お母上のご機嫌はいかがです?」
 六右衛門が、皮肉たっぷりに又六をうかがった。
「それを言うなって。おふくろはいくつになってもおふくろなんだから。怖ろしいのだよ。耳納の山を削って筑後川をせき止めよ、なんてとんでもないことを言うんだからな。だが、あの一言がなかったら、俺は現場から逃げ出したままだったかも知れんな」
「そうなれば、草野さまは今ごろ藩を追われて流浪の身ですか」
「この野郎、言わせておけば」
 草野又六と高山六右衛門のコンビは、まだまだ続きそうである。又六と近隣の庄屋らは、後に神として江戸前地区の大堰神社に祀られることになった。【完】

 久しぶりに床島堰の岸辺に立った。石を積み上げて築いた堰(現在は鉄とセメント)と、そこから流れ出す用水路は、いくつもの河川と交差しながら真っ直ぐ西に流れ、2.4キロ先の大堰神社脇の「江戸前」地区で、無数の支線となって筑後川北岸の穀倉地帯に配水されている。その仕組みたるや、観察すればするほどこちらの頭がこんがらがるほど。290年前の草野又六や高山六右衛門の知恵と苦労が偲ばれる。特に気にいったのが、「水田で使われた水は再び筑後川に返される」という大堰公園の掲示板説明であった。
 たった一つ気に食わないのは、最近建てられた記念碑に、やっぱり地元出身の大物代議士の名前が目立つように刻まれていたことだった。

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