太閤秀吉像
今回は、豊臣秀吉が九州平定後に立ち寄った大宰府の観世音寺でのお話。
秀吉にとって、天下統一を果たすためには、自分に対して従順でない薩摩の島津義久を排除する必要があった。天正15年(1587年)3月、西国大名を中心に25万規模の大軍を編成して、秀吉自ら九州に乗り込んだのだ。5月にはその島津が降伏したため、九州平定が完成したのである。
島津義久を服従させて帰路についた秀吉は、途中兵を率いて太宰府天満宮に参詣した。参詣が済むと、休憩場所として観世音寺に陣を張った。天下人にのし上がった羽柴秀吉にあやかろうと、近隣の大名たちが押し寄せたことは容易に想像できる。その間、秀吉一行をもてなすことになった観世音寺側は大忙しである。
天下人を接待する観世音寺の別当は、どちらかといえばおっとり型の性格であった。いつもの通り、専用の輿に載って寺の裏手に広がる広場に張られた陣地に進んでいった。
別当:諸大寺で,三綱の上位にあって寺務を総裁した者。宮司など
三綱:仏僧の寺内の諸事を統率する役務
日吉神社の杜(後方宝満山)
太閤秀吉といえば、小柄で風貌もそこらの町人と見間違うほど。一人地べたに座り込んで、好物の焼き芋にむしゃぶりついている男を、今や飛ぶ鳥落とす豊臣秀吉だと見るのは、ごく限られた側近くらいであったろう。
「観世音寺の別当さまである。殿下にお目通りする故、道を開けられよ」と、別当の側近が大声で小男に命じた。大声に反応したのは、側近より先に秀吉本人である。やおら立ち上がった小男の眉間に大筋が走った。
「なんじゃこいつ!」
秀吉は、別当が載る輿に近づいた。一触即発の場面である。この時躍り出たのは、別当の側近たちであった。日頃から別当が起こすトラブルを修復する役目をおっている副住職級の男とその付き人である。
「失礼をいたしました。太閤さまとは気づきませずに…」、副住職の最敬礼の意味を悟った別当が、輿から転げ落ちた。
腰の短剣に手をかけた秀吉を、家来たちが必死で止めた。その間、寺側の男たちは、額を地べたにこすりつけたままである。そのまま首を刎ねられても仕方ないと覚悟する副住職と、事態を未だに十分理解できないでいる別当。おかしな空気が境内中を旋回した。
現在の観世音寺
気が済まないのは、天下人を自認する太閤秀吉である。あろうことか、自分に向けられた別当の蔑みの眼差しがどうしても許せなかったのだ。だが、感情のままに別当を斬れば、逆に秀吉に非難の矛先が向くこと必定。そこで時間をおいて下された罰条は、「観世音寺の寺領の没収」であった。お寺取り潰しの令であった。そこで、天満宮や近隣の大名らが「穏便に」の願いを連ね、秀吉の側近も「由緒ある寺」を理由に「百町の寺領」だけを残して、あとの所領はすべて没収と決まった。現在の境内に馴染みの筆者にしてみれば、以上の事件が起きてなければ、観世音寺のスケールはいかばかりだったかと、ため息すら堪えきれない。
太閤秀吉の九州平定番外編を紹介したが、奈良時代以来の名刹も100町だけの貧弱な寺では衰退もやむを得なかった。その後、江戸時代になって復興されるまで、衰退の一途をたどったのである。(完)
※参考資料:福岡県の歴史(山川出版社)
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